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2008年07月17日

『For All We Know』Ciaran Carson(Wake Forest Univ Pr)

For All We Know →bookwebで購入

「現代風ソネット」

 英語圏の現代詩というと、どうしてもアイルランド方面に目がいってしまう。現存の詩人では、骨太さと感覚美の同居するイーヴァン・ボーランド、意味不明の快楽を官能的に味わわせてくれるメーヴ・マッガキアンなど、すぐに名前があがってくる。イエイツから始まり、トマス・キンセラからシェイマス・ヒーニーにいたるまで20世紀の文学史にはアイルランド詩人の名前が頻出するが、その背景には歌うことを愛し、個人が詩を朗読したり出版したりすることを受け入れてきた風土がある(そのあたりは栩木伸明『アイルランド現代詩は語る』(思潮社)に詳しい)。

 キアラン・カーソンもまた、若くして古典化しつつある詩人のひとりである。言葉を魔術師のように扱える人で、ゲール語からの翻訳にも意欲的。まだ60になったばかりで、実験精神も旺盛。1993年にT・S・エリオット賞を受賞したFirst Language『第一言語』やその後のOpera Et Cetera『オペラその他』では、アイルランド古来のバラードに使われた韻律法をもとに、英語詩に新境地を切り開いてきた。その特徴は長い行からなるカプレットで、一例をあげると次のようである。

F stands for forceps, or rather a wrench with adjustable jaws. I rubbed
The milled-edge Zippo callus on my thumb, and felt that everything was dubbed:
Fは鉗子 もしくは調整可能なレンチ
ジッポの端のぎざぎざで親指を容赦なくこすり なめらかに仕上げた気分

口のうえで言葉を転がすように読むと、心地良さがよくわかる。口の粘膜をくすぐるように、短い音節がくちゃくちゃとぶつかりあう感じが楽しい。童謡を思わせるテンポの良さは、「意味の呪縛」から離脱する軽さがあればこそだろう。

 しかし、今回とりあげるFor All We Know(『たぶん』)の実験は、またひと味ちがう。恋愛詩という設定なのだが、それをソネット連作という形でやろうという。ソネットは14行からなる英詩の形式である。イタリア起源で、16世紀にイングランドに輸入されるとまもなく大ブームとなり、宮廷詩人の誰も彼もがソネットを書いて当時のエリザベス女王のご機嫌をとろうとした。ソネット連作もこの頃流行したもので、いくつものソネットを連ねてぼんやりとストーリーを浮かび上がらせるソネット・シークエンスと呼ばれる作品がいくつも書かれた。

 ソネットが語るのは、何より恋愛である。それも貴婦人に愛を捧げるという「宮廷風」恋愛のパタン。語り手の男は従僕であり、とにかく女性のこの世ならぬ美しさをレトリックを駆使して褒めそやす。ソネットという枠の中なら、言葉は徹底的に甘く官能的になることがゆるされた。その極地を行ったのがシェイクスピアの『ソネット集』である。(ただし、お相手が女性ではなく、美青年であるところがおもしろい)

 今どき、ソネットなんてなあ、と思わないでもない。何しろ、口が曲がるほど甘いのがあたりまえ。エリザベス朝の文学習慣は今のものとはぜんぜん違っていたのだ。「褒めること」「心地よくさせること」が文学の目的で、今のように苦いもの、辛いもの、嫌なものがどんどん書かかれるということはなかった。今の私たちは文学に甘い嘘よりも、苦い真実を求めるのだろう。甘い嘘なら、文学でない場所にいくらでもあるから。

 カーソンも恋愛詩は苦手らしい。それでいろいろためして書いたようだが、エリザベス朝のソネット連作とは全然ちがうものになった。そもそも14行(もしくは二倍の28行)という枠は守ってはいても、エリザベス朝期のソネットに特有の、囲い込むような密集感はない。二行連句が続くが、韻は踏まないし、むしろ何となく散逸的なのだ。レトリックも抑え目。語り口は素っ気なく、「熱烈さ」があるんだか、ないんだか。というか、全体に冷えた感じがする。

 むしろこれらのソネットに恋愛詩らしいたたずまいを与えているのは、舞台に選ばれたいくつかの場所 ― 東西分断の痕の残るドレスデンやベルリン、60年代のパリ、紛争時のアイルランド ― の荒廃とメランコリーだろう。恋愛特有の物憂げさと、場所の重さとがかさなってくる。
 
 しかし、冷え切った恋愛を書くための詩ではない。荒廃した場所に降り積もる塵埃を通して見えてくる何かがある。

I thought for a split second I'd seen your Doppelganger.

As it were. For when he glanced up and met my eye, his face
was unreadable. It was as if he had just come to

as you had gone away. What is it in us that makes us
see another in another? All the way to Dresden

I could see you when I shut my eyes, remembering you
as you were ― this wordless annunciation of youself

clothed momentarily in the body of another,
thinking in another language had you been spoken to ―

as strange to me as when I first saw you in your own flesh,
as we go with each other as we have done, fro and to.


激しくも甘くもないけれど、「ドッペルゲンガー」を通して浮かぶのは、じわっと静かな執着である。息がとても近い。淡々とした語りに、放したくない、という切ない気持ちが刻まれている。'this wordless annunciation of yourself/ closed momentarily in the body of another'(言葉もなしで、あなたが来たとのお告げ 別人の身体に束の間、あなたは宿る)などという一節、さりげなく書かれているが、カーソンらしい「一筆書き」調がたいへん小気味良い。

 ソネット風なのに、むしろ散文調をいかした作品である。ちょっとミステリアスな暗さもある。ストーリーがあるのか、ないのか、恋愛ものにありがちな過剰さはなく、しっとりと窪んでいる。つい取り逃がしてしまいそうな密かな恋愛である。


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