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2008年07月30日

『百』色川武大(新潮社)

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「地面を掘る」

 まるで文章の下にやわらかい地面があるようだ。どう転んでも、何を書いても、言葉が根を生やして繁茂してしまう。サマになってしまう。そんな書き手がいる。

 色川武大の『百』に収められているのは、これでもかとばかりに語り手が地面をえぐっている作品ばかりである。これ、わざと言ってるな、とか、ちょっと嘘がまじっているな、と思わないでもない。やけにかっこいいな、とか。読者というのは案外冷たいもので、書き手が勝手に自己探求しても、「ああ、そうですか」とやり過ごす気分になることがある。どの作品もそう簡単に感情移入できる代物ではないし、そもそも移入することを求められていない気もする。

 それでも根は生える。不思議だなあ、どうしてだろう、と思ってちょっと紙面から目を離してみたら、次のようなことに気がついた。表題作の「百」の前半に、ひたすら段落が「私は」ではじまる下りがある。

 私はとにかく日々成長していき、父親は逆におとろえ、ある一点をのぞいて私がそう望んでいないにもかかわらず、私たち親子の関係は体力的に逆転していった。父親のヒステリーと争って組み打ちをすると私が勝ってしまうようになったのは十六七の頃だ。
私は幼い時期に、自分が畸型、乃至はそれに近い人間だと思いこんでいた頃があり、父親からその点に関してたえず叱咤され、励まされていた。父親は私に人並みの誇りを持たそうとしてしかめつらしい工夫をいろいろとしたが、それはすべて逆効果で、たとえ何であろうと、畸型ではないとしても、どうあがいても、洗練や、優等や、それらが結晶した結果の祝福にはほど遠い存在だと思わずにはいられなかった。(中略)
 私は級友に対して五分の関係を持つことができなかった。人間以下のもので、だから級友と同じ条件で競争などしてはいけないと思っていた。(中略)
 私は権利という意識を育てられなかった。何事に限らず、強制ということができない。自分には他人に強制できる権利などないと思っている。
 呪詛とも告白ともつかない。メモ書きのようにも見える。ただ、この文章、新たに始まるごとに息を吹き返している感じがする。まるで水泳の息継ぎのように、水面から顔を出して酸素を吸いこむたび、あらたなキックの力を得て、ぐいっと前に進んでいくような書き方なのだ。

 息を吹き返す力の元にあるのが、「私は」という書き出しなのである。「私は」と宣言し、定義し、説明する。そのたびに仕切り直しがされ、あらたに文章に力がみなぎる。「私」を主語にたてることでこそ、私をわかるというやり方。小説にしては、ちょっと直球すぎるかもしれない。アクションよりも観念に傾く。だから、すぐ息詰まる。言えなくなる。でも、息詰まったところで、また、「私は」とはじめる。転ぶのは、織りこみ済みなのだろう。

実は『百』におさめれているのは、「私は」に限らず、「誰々は」で語られる作品ばかりである。怪我をした弟の描かれる「連笑」、老衰で弱った父親を描く「百」など、それぞれの作品に色川と関わりの深い家族の肖像が、おそらくは色川の過剰な描き方ゆえのデフォルメとともに描かれている。

 そういう弟や父と、「私」との会話を読んでいてこれも不思議なのは、ときどきどちらがしゃべっているのか区別がつかなくなることだ。

「二人一緒に帰るのはまずいから、俺だけ先に帰って、十五分ほどして兄貴がそしらぬ顔で帰ってくるんだ。一度、俺が家に入っていったら、親たちの形相が変わってた。箪笥がひとつ空になっているんだ。兄貴が質屋にいれちゃったんだな。俺たちの放埒のために――」
「俺たちじゃない。主に俺のためだ。お前は休みの日だけだから――」
「おかげで、以来ずっと、放埒という奴ができなくなった――」
 私は池の向こうのひょろひょろの柳に眼をやっていた。
 必ず、性格形成に影響がある筈だ、と思っていた。弟のそこをのぞくことを私は怖がって、以降の日々、いつも遠巻きにしていた。そこをのぞきこんでしまえば、とりもなおさず、その下側にある私自身の欠落とまともに向き合ってしまうことになるからだった。
 私は他人事(ひとごと)のようにいった。
「ああいう経験は不能を呼ぶおそれがあるからな」
 弟はうなだれた。
 麻雀小説の書き手だけあって、色川の人間関係はいつも対決的、競争的。主役は張り合う男たちである。でも、そうして対決する同士がいつの間にするっと入れ替わってしまう。主語は「~は」と特定されるのに、どこかの段階までくると交換可能となる。

 そういう想像力の根底にあるのは、父対息子という争闘の図式である。おそらくどの「父親小説」でも共有されていると思える反転可能な図式がここにもある。

父親はあくまで攻めこもうとし、私は頑強に劣等を守った。ここがさらに煮つまれば私も死ぬし父親も殺す。父親が早晩死ぬはずの存在だと思いながら、まんざら冗談でもなく殺意も併せ持っていたのはこの点に関してである。  その劣等の私が、父親を体力的に組み敷いてしまって、体力ばかりでなく、父親がそれなりに培ってきた内心までも踏みにじってしまったとき、私ははじめて人生というものに触れたような気がした。
 父親の「内心」を踏みにじったときに、はじめて触れる「人生」とはいったいどんなものだろう。色川は、「~は」という形で息継ぎを繰り返しながら、まるで地面に潜りこむようにして文章をつづっていくのだが、そこで剥き出しになるやわらかい地面のことを、色川は「人生」と呼んだということなのかもしれない。
 心地よくなめらかに読む、というわけにはいかないが、潜行しては浮かび上がってくる言葉というのは、妙に、いつまでも、ひっかかるものだ。

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2008年07月17日

『For All We Know』Ciaran Carson(Wake Forest Univ Pr)

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「現代風ソネット」

 英語圏の現代詩というと、どうしてもアイルランド方面に目がいってしまう。現存の詩人では、骨太さと感覚美の同居するイーヴァン・ボーランド、意味不明の快楽を官能的に味わわせてくれるメーヴ・マッガキアンなど、すぐに名前があがってくる。イエイツから始まり、トマス・キンセラからシェイマス・ヒーニーにいたるまで20世紀の文学史にはアイルランド詩人の名前が頻出するが、その背景には歌うことを愛し、個人が詩を朗読したり出版したりすることを受け入れてきた風土がある(そのあたりは栩木伸明『アイルランド現代詩は語る』(思潮社)に詳しい)。

 キアラン・カーソンもまた、若くして古典化しつつある詩人のひとりである。言葉を魔術師のように扱える人で、ゲール語からの翻訳にも意欲的。まだ60になったばかりで、実験精神も旺盛。1993年にT・S・エリオット賞を受賞したFirst Language『第一言語』やその後のOpera Et Cetera『オペラその他』では、アイルランド古来のバラードに使われた韻律法をもとに、英語詩に新境地を切り開いてきた。その特徴は長い行からなるカプレットで、一例をあげると次のようである。

F stands for forceps, or rather a wrench with adjustable jaws. I rubbed
The milled-edge Zippo callus on my thumb, and felt that everything was dubbed:
Fは鉗子 もしくは調整可能なレンチ
ジッポの端のぎざぎざで親指を容赦なくこすり なめらかに仕上げた気分

口のうえで言葉を転がすように読むと、心地良さがよくわかる。口の粘膜をくすぐるように、短い音節がくちゃくちゃとぶつかりあう感じが楽しい。童謡を思わせるテンポの良さは、「意味の呪縛」から離脱する軽さがあればこそだろう。

 しかし、今回とりあげるFor All We Know(『たぶん』)の実験は、またひと味ちがう。恋愛詩という設定なのだが、それをソネット連作という形でやろうという。ソネットは14行からなる英詩の形式である。イタリア起源で、16世紀にイングランドに輸入されるとまもなく大ブームとなり、宮廷詩人の誰も彼もがソネットを書いて当時のエリザベス女王のご機嫌をとろうとした。ソネット連作もこの頃流行したもので、いくつものソネットを連ねてぼんやりとストーリーを浮かび上がらせるソネット・シークエンスと呼ばれる作品がいくつも書かれた。

 ソネットが語るのは、何より恋愛である。それも貴婦人に愛を捧げるという「宮廷風」恋愛のパタン。語り手の男は従僕であり、とにかく女性のこの世ならぬ美しさをレトリックを駆使して褒めそやす。ソネットという枠の中なら、言葉は徹底的に甘く官能的になることがゆるされた。その極地を行ったのがシェイクスピアの『ソネット集』である。(ただし、お相手が女性ではなく、美青年であるところがおもしろい)

 今どき、ソネットなんてなあ、と思わないでもない。何しろ、口が曲がるほど甘いのがあたりまえ。エリザベス朝の文学習慣は今のものとはぜんぜん違っていたのだ。「褒めること」「心地よくさせること」が文学の目的で、今のように苦いもの、辛いもの、嫌なものがどんどん書かかれるということはなかった。今の私たちは文学に甘い嘘よりも、苦い真実を求めるのだろう。甘い嘘なら、文学でない場所にいくらでもあるから。

 カーソンも恋愛詩は苦手らしい。それでいろいろためして書いたようだが、エリザベス朝のソネット連作とは全然ちがうものになった。そもそも14行(もしくは二倍の28行)という枠は守ってはいても、エリザベス朝期のソネットに特有の、囲い込むような密集感はない。二行連句が続くが、韻は踏まないし、むしろ何となく散逸的なのだ。レトリックも抑え目。語り口は素っ気なく、「熱烈さ」があるんだか、ないんだか。というか、全体に冷えた感じがする。

 むしろこれらのソネットに恋愛詩らしいたたずまいを与えているのは、舞台に選ばれたいくつかの場所 ― 東西分断の痕の残るドレスデンやベルリン、60年代のパリ、紛争時のアイルランド ― の荒廃とメランコリーだろう。恋愛特有の物憂げさと、場所の重さとがかさなってくる。
 
 しかし、冷え切った恋愛を書くための詩ではない。荒廃した場所に降り積もる塵埃を通して見えてくる何かがある。

I thought for a split second I'd seen your Doppelganger.

As it were. For when he glanced up and met my eye, his face
was unreadable. It was as if he had just come to

as you had gone away. What is it in us that makes us
see another in another? All the way to Dresden

I could see you when I shut my eyes, remembering you
as you were ― this wordless annunciation of youself

clothed momentarily in the body of another,
thinking in another language had you been spoken to ―

as strange to me as when I first saw you in your own flesh,
as we go with each other as we have done, fro and to.


激しくも甘くもないけれど、「ドッペルゲンガー」を通して浮かぶのは、じわっと静かな執着である。息がとても近い。淡々とした語りに、放したくない、という切ない気持ちが刻まれている。'this wordless annunciation of yourself/ closed momentarily in the body of another'(言葉もなしで、あなたが来たとのお告げ 別人の身体に束の間、あなたは宿る)などという一節、さりげなく書かれているが、カーソンらしい「一筆書き」調がたいへん小気味良い。

 ソネット風なのに、むしろ散文調をいかした作品である。ちょっとミステリアスな暗さもある。ストーリーがあるのか、ないのか、恋愛ものにありがちな過剰さはなく、しっとりと窪んでいる。つい取り逃がしてしまいそうな密かな恋愛である。


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