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2008年05月31日

『言語表現法講義』加藤典洋(岩波書店)

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「うざったさの批評」

 批評の方法に関心があるという学生さんがやってきたら、筆者がまず推薦するのはこの本である。

 「表現法」の講義というのだから、表向きは文章を書くための教科書である。もちろん「スキマを生かせ」とか「ヨソから来るものを大事にせよ」といった、まごう方なき「コツ」も並んでいる。しかし、コツだけを求めて読んでいくと、たぶん、途中でへばってしまうだろう。著者がかなり本気なのだ。決して難しいことは言わないし、予備知識もゼロでいい。でも、こちらが腰をいれていないと、それこそ、押し返されそうだ。

 腰を入れる、とはどういうことか。たとえば冒頭、何かを教えようとか、大学らしい学問をしようという気持ちは捨てた、と著者は言う。そもそもみんな、文章を書くことがあまりに楽しくない、そこが問題だという。

 皆さんは、なぜ文章を書くのが楽しくないのだと思いますか。僕はある時、その理由を発見しました。
 人に文章を書かせなくする確実な方法というのは、死ぬ思いで、頑張ってあることについて書け、と言っておいて、書いたらそれを見ている前で燃やすのです。それを一〇回くらい続けたら、まずほとんどの人が書くのをやめるでしょう。でも、大学でなされているのは、それと似ているのです。

文章を書くための本のはずなのに、こういう風にはじめられると、こちらは虚を突かれてぐらつく。柔道で言えば、体勢をくずされるような小技。まさかそう来るとは思っていないから、ちょっとした接触なのに、あっ、と思う。差し込みが実にうまい。

 文章の一生というものがある。それは、文章を書く。そして、それを相手に出す。そこで終わるのではありません。それは、相手に読まれ、時に相手を失望させ、時に相手を感激させ、時に相手に愛想を尽かされる。その相手から「生きた反応」が示される。そこまでいって、人に一度書かれた文章というのは一つのサイクルを終えるのです。鮭で言ったら、これが海に行って川に帰って、産卵して死ぬ、までの行路です。

たいへんやさしい言葉で書いているのだが、これ、相手に頷かせるためだけの言葉でないというところに注意しなくてはならない。からんでいる、のである。その相手はまずは講義参加者が提出してきたレポートであり、また本書に散りばめられたさまざまな文章の抜粋である。それらをつっつく。しかし、それだけではない。「みなさん」と呼ばれる教室にいる生身の学生や、若者一般や、文学をやる人や、そして誰より、著者自身も対象なのだ。

 からむ、とは別のいい方でいうと、言い終わらない、ということである。言葉を出したりひっこめたりする。様子をうかがう。でも、自信がないというのとも違う。是非そうだ、というような強さを持っている。やっつけてやろうとさえ思っているらしい。それでいて妙にやさしいというか、人懐っこい。控えめでもある。

 著者はこの「からみ」によって、問題の所在そのものをさぐっているのである。問題と正面からぶつかって悩んだり、解決したり、あるいは主張したり、論じたりするより、何でもいいから手をつっこんで、内容をぐちゃぐちゃとほぐしていく。聞き手との関係性もまだ決まっていない、組み手が定まっていないから、お互い警戒しながら立ち位置を変える。そういう過程で、何かを話題にするということ自体が話題になる。やり取りが生ずるのである。「何を話そうか」「ほら、見て。これは何?」というような、ほぐすような手招きを感じさせる。それで思わず反応し、思わず、自分のこととして考えてしまうのである。だからそういう用意がないと、つまり、腰をすえて向こうの「ほぐし」を受け止める準備ができていないと、こちらはただ体勢を崩されて終わる。

 別の例を引こう。

 先に僕たちは、「自分」を押さえ、それを「他人」にどうわかりやすく書くか、というように考えたのですが、自分で実際に書こうとして、わかることがある。白紙の前に立つと、自分って何も考えていない、頼りにならない、ということにはじめて、気づくんです。ああ、なんて自分って空っぽなんだろう、そう思いませんか?僕はよくそう思う。それが書く場合の最初の感慨です。

うわっ、といいたくなるくらい侵入的な語りである。誰もが、あまり口にしたくなくて黙っていることをたやすく言う。あまり偉そうにではなく、軽々と、でも深々と言う。そこには「ねえねえ、」とまとわりつくような、しつこさがある。「うざったさ」がある。

ここで皆さんに言いたいことは一つ、書こうとするときにその邪魔、障害として現れてくるものを回避したら、絶対にいいものは書けません。書かれる文章に力を与えるのは、その障害、抵抗なんです。僕などは、だいたい準備した後、どこからが自分の書けないところかを見極めると、そこに自分をパラシュートで投下させますね。書けないところから書く。まあ、これは極端で命を縮めますからすすめませんが、少なくとも、書けない、これはチャンスだということです。

この「パラシュートで投下」という比喩、たぶんこの本のMVPである。言葉としてぜんぜん美しくないところがまた、加藤典洋らしい。淡泊で、殺伐としてさえいる。太っていない。

 これこそ、批評だよな、と筆者は思う。
 批評家は喧嘩稼業だということがよく言われる。切った張ったでナンボの世界だという。勝負の世界なのである。より殺傷力のある言葉を語る者が勝つ。だから、しばしば批評家は分厚い鎧で身を包む。いつ弾が飛んでこないとも限らないから。

 加藤典洋だって、たとえば文芸誌や新聞に書くときにはそれなりの装備に身を包んでいる。でも、批評家が真価を発揮するのは、薄着になったときではなかろうか。難しい言葉で戦闘ごっこをしてみせるのはあんがい簡単なのである。武具を脱いでみると、「な~んだ、その程度のことを言うために、そんな装備をつけていたの?」と言いたくなる。

 この本は逆である。限りなくハードルを低くして、文学になんか露ほどの関心もなく、「加藤典洋」というブランドネームにも反応しないであろうふつうの大学生にどうやってからむか、そこで勝負している。鎧など着ていたら、みな、立ち止まってくれさえしない。

 本書は初版が1996年。すでに十以上の版を重ねている。最近、こういう「うざったさ」を発揮する批評家がどれだけいるだろうか。言わないでおきたいことに手を突っ込んでくる嫌な奴。もともと数が少ないのかもしれない。威張りん坊じゃ、だめなのだ。本書にも引用されているが、『文学がこんなにわかっていいかしら』の高橋源一郎なんか、かなりうざかったなあ、とあらためて思う。

 からみで勝負する批評家は、こちらにも反論する余地を残してくれる。実は本書には一カ所、そこは言わなくてもいいのになあ、と思うところがあった。わかったことよりも、わからないことを書くのだ、という一節である。

僕は批評を書きますから、これは調べものをするわけです。それで、いろんなことがわかる。ふつう学者の論文というのは、その調べ上げたものを、書くのです。これがプロの学者というものなのでしょう。でも、僕はプロはプロでも物書きの方のプロです。で、物書きとしてのプロは、ここで、どうするかというと、調べたものをすべていったん捨てるのです。調べてわかったことは、その上にいくための階段にしかならない。つまり、わかったことが大事なんじゃなくて、わからないことが、大事なのです。何が自分にわからないことなのか、それを求めてこれでもない、これでもない、と調べていく。そして、最後に、これが正真正銘、自分にわからないことなんだ、というそのわからなさのエキスを摑み出す。

まったくその通りだと思うし、本文を読んでくると自然な流れでもあるのだが、ここだけは堂々と言っちゃいけないのじゃないかという気もする。わからないことは大事だし、そこに文章の肝があるというのも納得するのだが、やはりわからないことは恥ずかしいことなのじゃないか。恥ずかしいことであり、うまく言えないことであり、だから純粋でもある。この体験を指さし、「ここです」と言ってしまって、もちろん加藤典洋のような人が「んぐ」とばかりに受けてとめるなら何の問題もないのだが、たとえば「そうか、わからないことが大事なのですね♪」という具合にすかっとさわやかに受け入れられたら、果たしていいことがあるのかなあ、という疑問が立つ。下手をすると、かつての日本的批評の、口ごもりがちで勿体ぶった、妙に神秘主義的で格好ばかりのいい、悪い意味での「うざったさ」につながるようにも思うのである。
 どうでしょうね。


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2008年05月19日

『近代文化史入門』高山宏(講談社学術文庫)

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「記念です」

 ついに高山宏書評コーナー「読んで生き、書いて死ぬ」が終わってしまった。
 内輪でやってると思われても何なので、あえて氏の本を取り上げるのは避けてきたが、日本の英文学を語るには避けられない巨人であることは間違いない。これでシリーズは終わりということだし、ちょうど良い機会。伝説的な『目の中の劇場』は品切れとのことなので、「超英文学講義」との副題のついた本書を読んでみる。

 さて。なぜ「超」なのか。なぜそれでも「英文学」なのか。この副題はたいへん意味深い。高山宏の最大の魅力は、「知」がおもしろいことを教えてくれることである。当たり前だと思うかもしれないが、意外に当たり前ではない。「知」というのは、それなりに修練をへたり、悩んだり、諦めたり、緊張したりする中から紡がれる人間の営為である。そう簡単におもしろがれるものではない。地味で、退屈で、難解なもの。偉そうで、縁遠かったりもするもの。少なくとも筆者は、そう思う。

 高山宏の功績は、この際どい「知」の営みを、その際どさを含めて、むずむずするような肉感とともに演じて見せてきたことである。たとえばロマン派について語る本書の冒頭部。一般に、「要するにピュアな世界を目指そうといのがロマン派だった」という誤解があることをとらえて氏は言う。

 虚心坦懐にロマン派に立ち向かうと、どうも戸惑ってしまう。ロマン派の半分は、淡々と山野を歩いての報告なのだ。日本のロマン派研究はこれをまったく無視してきたといっていい。
 自分の家からどこかの山まで、ただひたすら散策する。何キロか延々と歩く途中で、ツタの葉が生えているのを見て、きのう八枚しかなかった葉っぱが、きょうは九枚になっている。君も成長したのだな。そうだ、僕も成長しなければといった調子で延々と続く。これは一体何なのだろう。
こういう語りっぷり、いいなあ、と思う。大事なのは、この「一体何なのだろう」というところである。あるいはその前の「どうも戸惑ってしまう」というところ。

「知」の出発点とは、こういう風に戸惑ったり、疑ったりするところにあるのではないか。私たちはそこで「非知」のようなものとぶつかって面食らい、がっかりする。そして多くの場合、そこで至極ふつうに退屈し、あるいは「?」と目を見合わせて終わる。しかも、退屈しているにもかかわらず学習だけはし、記憶する。そして平然と退屈さを再生産する。これに対し、高山宏は驚くほどの度量の広さで、こうした「がっかり」を受け止め、いとも簡単にギャップを飛び越える。

こうした叙景、風景描写のジャンルを「エクスカーション」という。今では遠足、遠出の意味だが、議論が脇道へそれること、すなわち脱線する書き方も指した。「プロスペクティブ・ポエトリー」といった気の利いた言い方もある。「眺望詩」とでも訳すか。それが、ある時代の恋愛文学、ある時代の思想的な文学と同じくらい、十八世紀後半には大流行していたのだった。
高山的「知」の快楽は、こうした飛躍にこそある。氏の再三強調する「関係づけ」であり「全体化」なのだ。はっと視界が開ける喜び。

 本書のタイトルに嘘はない。まさに「近代」という時代をわかるための本である。17世紀から18世紀、さらには19世紀となめらかに時間軸を移動しながら、高山宏は「アンビギュイティ」の訳語を再考し、「絵と文字」の関係を疑い、「ファクト」や「リアル」といった概念の起源を問題にするかと思うと、「蛇行と直線」の歴史を辿り、プライバシーの誕生と書簡体小説なんていう話題にも飛び移る。17世紀の暗号流行りとか、アイルランド人の自転車好きとか、王立協会が「言葉」と「もの」の関係にどのような影響を与えたかなど、きらびやかな「ネタ」が満載である。

 高山宏の語りからはつねに、「もっとおもしろがれるはずだ」という、ほとんど理由なき「知的前向きさ」が感じられる。「もっとおしろがれるはずだ」とは、別の言い方をすれば、「もっとわかるはずだ」とか「もっと見えるはずだ」という精神である。つまりそれは、この本の中心テーマとなっている近代の「目」の問題と重なるのだ。

 今まで見えないものをあきらめていた教養があったのであり、そこから先は神の領域、人間が手を出してはいけない領域だった。技術論的にいえば、不可視の領域である。見えないものは理解しない。「好奇心」というものと直結した目が現象の表層をやぶって、どんどん世界を可視のものに変えていく。「啓蒙」とは文字通り「蒙(くら)」きを「啓(ひら)」く光学の謂なのだ。「真理の面帕(ヴェール)」をはぐのである。
(中略)
「I see that.(わかった)」とは、まさに言い得て妙の英語である。「私が見る」ということと同時に「私はわかる」を意味するのである。「見ない限りは理解しない」のである。
  「見ない限りは理解しない」というところに注目したい。高山宏という人、あまりにひょいひょいとジャンプするので、ついこちらはそのジャンプばかりに目をとられがちだが、彼にかくも鮮やかなジャンプをゆるすのは、「いざとなったら、理解しないぞ」とでもいう覚悟であるような気がする。土台にあるのは、じつに疑り深く、退屈さに敏感で、白々と明晰で、身も蓋もないことを平気でいうようなイギリス的知性でもある。

 そこが高山宏の「英文学的」たる所以である。本書でもやや批判的に触れられているように、日本の英学・英文学には、何とも「じじむさい」ところがあった。たぶん今でもそうだ。その英文学的加齢臭は、しかし、「わからんものはわからん」と言えてしまうような、変にカッコつけてわかったふりをしなくても許されるような文化を養ってもきた。本書の最後で氏は英文学と「ばいばい」しているが、氏の芯の部分にはずっと英文学の「目」があるのではないかと筆者は勝手に理解している。

 それでは、どこが「超」なのか。
 多くの英文学的人間は、あまりにこうしたイギリス的白けムードのようなものと相性がいい。だから何の感動も、ジャンプもなしに、淡々と「知」のぬかるみに足をとられることを何とも思わない。イギリス人にしてからがそうだ。「どうせ、こんなものさ」と思う。「世の中、そうびっくりすることなんかないさ」とか「わかりゃしない」と諦めている。そこが、ある意味ではイギリス的知性のすごみでもあるのだが、イギリスで鬱病が多いというのもまた事実。

 高山宏の不思議なのは、彼もまた間違いなくこのイギリス的白けムードを身につけているくせに、それでもなお、興奮し、ジャンプし、おもしろがる能力を備えているところである。これはふつうの人ではなかなか実践できないことだ。才能だけでなく、ホルモンとか、血圧とかが関係しているに違いない。氏の語りには何ともいえない色気があり、温度があるが、これはほとんど生理の次元のことなのだ。

 いつもの書評と比べると本書では「ぼく」があまり登場しない。やはり「近代文化史」ともなると忙しくて、それどころじゃないのかなと思っていたら、後半にやっと出てきた。「ぼくの世代には、一日デパートで過ごすというライフスタイルがあった」とのこと。226頁から始まるこの「デパートの話」というセクション、デパートと高山宏の関係から説き起こして、例によってひょいとジャンプする。紀伊國屋書評の高山的「ぼく」に惚れてしまった人には堪えられないところだ。

 筆者の恩師のひとりの出淵博先生はかつて「高山宏は目利きだからね」と悔しそうにおっしゃったものである。悔しそうだったのは、たぶん出淵先生ご自身が目利きを自任しておられ、それでも「高山宏」にはかなわないと思っていたせいか。筆者は出淵先生の格言はすべて信用することにしてきたので、今でも「目利き」という言葉を聞くと高山宏の名を連想するほどである。

 実は筆者はいまだ、ご本人に挨拶申し上げたことがない。本郷キャンパスで授業を持っておられることもあり、文学部の建物のエレベータなどで、誰がどう見ても「高山宏!」としか見えない方と出くわすことがあるのだが、このエレベータ、実にノロマというか、よくいえば牧歌的な代物で、ぬぬぬぬ~とか言いながらいつまでたってもやってこない。乗っても動き出さない。しかもそこで、ヌマノビッチこと沼野充義氏が「ねえ、金澤先生。僕はいつも、あの鈴木っていう学生を見ると佐藤って言っちゃうんですよ。あのふたり似てるでしょ? ね? ね? ところが本人たちにそれを言うと、全然似てないって怒るんですよ。似てますよねえ?どう見たって似てる。それに一度似てると思ったが最後、意識しちゃうから、よけいこんがらかるんです」なんていう会話を交わされていたりして、「何かこれ高山的関係づけ?」などと思ってるうちに、思わず挨拶のタイミングを逃すのである。


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