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2008年04月30日

『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』ホイットマン 飯野友幸訳(光文社)

おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)

→『おれにはアメリカの歌声
が聴こえる―草の葉(抄)』
Leaves of Grass
→“Leaves of Grass”

「ホイットマンをゆるす」

 ホイットマンの名を聞いたことがないという人は少ないだろう。英語圏の詩人の中では、おそらくシェイクスピアについでもっともよく知られた存在である。小説中心の「古典新訳文庫」シリーズでも、ただひとり詩人としてラインナップに名前を連ねている。

 しかし、ホイットマンの詩はあんがい読むのがむずかしい。言っていることがわからないのではない。いや、言ってることはわかるのに、なおわからないところが難しいのである。たとえば「古典新訳文庫をかたっぱし読んでやる!」とやる気満々の人がいたとする。そういう人が、「あ、ホイットマンがいる。そうか詩か。よし、読むぞ!」と思ったとする。しかし、もし「そうか詩か(どんと来い!)」と意気込んだとしたら、すでにホイットマンはうまく読めなくなる可能性がある。

 そもそも詩というのは、読む前にこちらが「読みのモード」を切り替えないとうまく世界にはいっていけない、ということが多い。シェイクスピアのソネットであれば、小さい部屋で熱い言葉をかわすわけだから、それなりの身繕いというか、ツメを切ったり、歯を磨いたり、という気持ちが大事になる。『失楽園』のように、悪魔がうようよ現れて大演説会を開いたり、魔王がヘリコプターみたいに空から舞い降りてきたりする作品の場合は、まずは雨戸を閉めて部屋を暗くし雰囲気を出すのもいい。

 モードの切り替えが忙しいのは躁鬱系の詩人だ。たとえばワーズワスなどは突然落ち込んだかと思うと、何の前触れもなくはしゃぎだし、歩き出し、山にのぼり、わけのわからない哲学を開陳して、あげくには涙ながらに岩だの木だの川だのに感動して、興奮の頂点にのぼりつめる。これなら、ひたすらめそめそするのが得意なテニスンのような詩人の方が、まだ付き合いやすいかもしれない。が、いずれにしても、こういう詩人たちは「よし、ではおつき合いしましょう」というこちらの心構えに、それなりに答えてくれる。どこかに連れて行ってくれはする。

 ではホイットマンはどうか? この人、モードということで言うと、明らかに「躁」である。暗い内容のはずなのにやけに明るい。何でもかんでも、大きな声で言ってしまう。まずここが、「そうか詩か。よし、読むぞ」という意気込みとそぐわない理由のひとつである。詩を読む人には、たいがい「まじめオーラ」のようなものが出ている。筆者も、自分でそれに気づくことがある。少し神経をぴりっとさせ、口数少なくなり、煩悩苦悩を忘れ、下手をすると眠りに落ちそうにも見える。ほんとうに寝ちゃったりもする。

 この「まじめオーラ」は実際に効果があるのだ。悪魔の大演説会であろうと、哲学ハイキングであろうと、こちらの心に受け皿をこしらえてあげるのが大事なのだが、そのためには自分の意識を抑え、鎮め、灰色の地のようなもの――「心の沼」のようなものを用意すればいい。これが詩を読むための器となる。そうすると意識の圏域から片脚だけでも外に出すような、意識と意識の外側とのあわいに遊ぶような心地に至ることができる。

 こうした「まじめ」の根本にあるのは、「静けさ」だろう。灰色で、地味で、波風の立たない空っぽさ。ところがホイットマンという人は、はじめからそういう「まじめ」の外にいるようなのだ。その代表作「おれ自身の歌」の出だしはこうだ。

おれはおれを祝福し、おれのことを歌う。
そしておれがこうだと思うことを、おまえにもそう思わせてやる。
おれの優れた原子ひとつひとつが、おまえにもそなわっているからだ。

何だか雑で、いい加減。騒々しく、図々しい。これが詩かよ、と思う。ただ、そう思いつつも、あれ、こういうのもありかな?という気にもなる。百年にひとりくらい、こういう人がいてもいいのかな、という寛容な気持ちが芽生えてくる。自分の図々しさを突きつけつつも、「まぁ、いいっか」とこちらに思わせるような、素っ頓狂で、天然で、アク抜けしたような饒舌。どうやらホイットマンを読むとは、こうしたホイットマンらしさのようなものを「ゆるす」ということのようなのだ。筆者の知人がある著名な学者の文章について「不愉快寸前」という絶妙の形容をしていたが、ホイットマンについてもこの表現を借用したくなる。「寸前」のところで、ゆるすのだ。

 私たちが「まじめ」に詩を読むとき、そこには頭(こうべ)を垂れて相手の門を叩く、という姿勢が織りこまれている。詩に限らず、多くの読書はそういう体験であろうし、私たちが「読む」という行為に期待するのはそういうものなのだ。頭を垂れるのは、そう難しいことではない。もちろん、ホイットマン門の前で頭を垂れるのも可能なのだが、多くの人は途中で「何だ、こいつ」と我慢できなくなる。「こっちが下手に出てると思って、いい気になりやがってぇ」と思う。

 見ての通り、今回の飯野訳では若い頃の詩は一人称が「おれ」になっていて、一瞬たじろいだ。「<おれ>かあ…」と思った。正直、今まで筆者が持ってきたイメージとは違う。しかし、飯野訳を通して読んでいくと、「おれ流」の一貫した文体効果が感じられてくる。「おれ」ならではの、荒っぽさやわざとらしい強引さ、そして何より、詩とは思えないほどの構えのない、準備のない、あけすけでスキだらけで、まるっきり空気のよめていない愚鈍さと、テキトーさと、鬱陶しさとが、妙に爽快に感じられてくる。

おれは肉体の詩人であり、おれは精神の詩人だ、
天国の喜びはおれとともにあり、地獄の痛みはおれとともにある、
おれは天国をおれに接木(つぎき)して繁茂させる、おれは地獄を新しい言葉に翻訳する。

おれは男の詩人であるとともに女の詩人でもある、
そしておれにいわせれば、男であることと同じくらい女であることもすごい、
そしておれに言わせれば、人の母であることほどすごいものはない。

おれは拡大と矜持(きょうじ)の賛歌を歌いあげる、
もう逃げたり、人をけなしたりするのはやめた、
おれは証明してやる、時間がたてば大きくなるんだと。


面識もないエマソンに自分の詩集を送りつけ、好意的な返事が来るとそれを勝手に新聞に転載したりするのがホイットマンという人であった。空気が読めないのはまさに地なのである。臆面もなく、自分の本を書評して褒めたりする。もちろん詩の中でも自分を賛美する。

ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙、マンハッタンの息子、
荒々しく肉体的で官能的で食って飲んで子をつくって、
感傷にひたることもなく、男たち女たちに威張りもしない、冷たくもしない、
謙遜でもなければ不遜でもない。

私たちはふつう、図々しい人やがめつい人というのは嫌いなものだ。理由は簡単で、そういう人は私たちに損をさせるから。被害を与えるから。本能的に私たちはそういう人を避ける。だけどなぜかはわからないが、私たちには、そういう人の中でもとりわけ札付きの者を異端として祭りあげ「ゆるす」ことを喜ぶ気持ちもある。ふつうは嫌だけど、たまにはいい。ごく稀に、「異端」として注目してみると何とも言えない愛嬌を発揮する人がいるのだ。だから「いけ、いけ、もっとやれ、」と思ってしまう。ホイットマンの奴、実はそんなこと、わかっていたのかなとも思う。それなら、なおさらゆるし難い厚かましさだ。だからよけい、ゆるすのも気持ちがいい。

 ホイットマンというと、すぐ英詩の革新者とか、自由詩の創始者などと技法的な面が言われることが多いが、これほど詩人本人の鬱陶しさが露出する詩人も珍しいと思う。ギンズバーグなんて足元にも及ばない。

 飯野訳には英語原文もおまけでついているので大変便利である。是非、英語も参照しながら読んでもらいたい。そして最後まで読んだら、次はより分厚い岩波文庫版〈上〉〈中〉〈下〉を手に入れ、ペンギン版を注文し、と先に進むといい。最後に英語原文からの引用をひとつ。

I do not press my fingers across my mouth,
I keep as delicate around the bowels as around the head
and heart,
Copulation is no more rank to me than death is.

I believe in the flesh and the appetites,
Seeing, hearing, feeling, are miracles, and each part and tag of me is a miracle.

Divine I am inside and out, and I make holy whatever I
touch or am touch'd from,
The scent of these arm-pits aroma finer than prayer,
This head more than churches, bibles, and all the
creeds....

もしホイットマンが愚かに見えるとしたら、それはおそらく、ここまで堂々と「賢者の言葉」を語ってしまうからだろう。賢くみせようとする言葉は、しばしば愚かしく見えてしまうものだ。しかし、同時に、堂々と愚かになれる言葉には、ほんのたまに――ごくごく稀に――すごい迫力が宿る。この絶妙のバランスを実現する人は、そうはいないのではないか。


Leaves of Grass『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』岩波文庫版『草の葉〈上〉』岩波文庫版『草の葉〈中〉』岩波文庫版『草の葉〈下〉』


2008年04月08日

『詐術としてのフィクション-デフォーとスモレット』服部典之(英宝社)

詐術としてのフィクション →bookwebで購入

「英文学研究的とは?」


 ドラマを観たり漫画や小説を読んだりすることは何ら特殊な体験ではない。「批評」となるとやや難しげに聞こえるかもしれないが、要するに、「いい」とか、「ダメ」とか言うことでしょう、といった了解はある。書評やテレビ欄の紹介記事だって、一種の「批評」。しかし、「研究」となると、急に神秘的な香りが漂う。作品を「研究」するって、いったいどういうことかしら?

 何より大事なのは、研究には「カルチャー」があるということである。最近ではフランス文学研究、日本文学研究、インド文学研究などを分かつ垣根はどんどん低くなっているし、批評のための道具もしばしば共有されている。映画研究やら野球研究やらオタク研究やら、開拓の進む新しい分野と、昔からある研究分野とは重なるところも多く、いろんなことに首を突っ込む人もいる。しかし、それぞれの研究には、異なった雰囲気というか、ノリというか、感触のようなものがある。研究者のファッションも、しゃべり方も、顔つきも違う。フランス文学を研究するための訓練を受けた人は、映画や合気道について考えるときにも、どこかフランス文学研究的面構えをし、フランス文学的発想でものを考えるような気がする。ほんとに。

 筆者の専門は英文学研究である。なので日々、「英文学研究的」空気につつまれて生活している。これが意外と馬鹿にできない。うんざりしたり、行き詰まったりすることもあるけど、どこかで「英文学研究的」考え方を信用しているところもあるし、それをきっちりやり遂げている人をみると喝采を送りたくなる。

 服部典之の『詐術としてのフィクション』は、タイトルからしても装丁からしても、いかにも英文学的である。副題に「デフォーとスモーレット」と、重要作家の名前がガンと出てくるあたりもそうだ。さらに「あとがき」をみると(まず「あとがき」を読むというのもどことなく英文学的かもしれない)、ほんとうはヘンリー・ジェームズの『ロデリック・ハドソン』を読もうと思っていたのに、図書館でまちがえてスモレットの『ロデリック・ランダム』を借りてしまい、それが契機となって30年後についに本まで出してしまった、などと書いてある。

 たしかに英文学的世界では、『ロデリック・ハドソン』と『ロデリック・ランダム』がこんがらかっている人は実に多いのだ。何という日常性! まるでイモとカブを間違えて食べてしまうような、拍子抜けするような呆気なさ。

 しかしこうした世界でこそ、『詐術としてのフィクション』の変なてらいのない、腰のすわったスタイルが生きる。本書の中心となるのは、近代小説の土台が築かれた18世紀という時代である。小説がまだまだいろんな形をとりえたような、文学的には実に野蛮で、混沌として、可能性に満ちた時代である。タイトルにもあるように、「フィクション」であるということが、今のように当たり前に受け取られていなかったこの時代、書き手たちは自分たちの書いたものをどのように世界に提示しようとしたのか。

 本書の中から、英文学的発想の例となるような議論を取り上げてみよう。全体のテーマからは少し外れるかもしれないが、「オックスフォード英語辞典と『ロビンソン・クルーソー』」という章がちょうどよい。

 そもそも「オックスフォード英語辞典」とは何か。これは「英文学的」のご本尊のようなもので、今ではCD-romになってしまったが、かつては大学の英文学的研究室に行くと、20冊を超えるオックスフォード英語辞典のセットが必ずありがたく本棚にならべられていたものである。大学院の授業では、先輩や先生に「君はこの単語について、ちゃんとOED(「オックスフォード英語辞典の短縮形)をひきましたかね? ふふふ」と言われたらアウトというような雰囲気もあった。

 「オックスフォード英語辞典」では、英語の単語の語義がきわめて厳密に記述され(だから、たとえばA~Beまでで一巻というようなことになる)、それぞれの単語が使われ始めた年代がわかるように、引用例が出版年とともに示してある。単なる英語辞典というよりも、文献学的な色彩の強い、一種の英語史辞典の風情がある。もとを辿るとこうした引用例の豊富さは、本格的な英語辞書のパイオニアとされるサミュエル・ジョンソンの有名な「英語辞典」(1755年)から引き継がれた傾向である。こうした収集作業には、明らかに「英文学的」のひとつの顕れを見て取ることができるのだ。

 日本語でも小学館の『日本国語大辞典』など類似の辞書があるが、スケールも違うし、何より言語文化への根づき方に大きな差がある。百年を超える歴史を持つ巨大な「オックスフォード英語辞典」を支えてきたのは、単語の初出年を突きとめ、オックスフォード大学出版局に投書することを生き甲斐とする人々の執念であった。「オックスフォード英語辞典」は、ある種の権威である一方で、無名の篤志家による合作なのでもある。ウィキペディアの遠い親戚とも言えるかもしれない。

 さて、こうした「オックスフォード英語辞典」の特性をおさえた上で、服部はおもしろい指摘をする。現在のCD-rom版を使用すると、作品ごとの、この辞典への引用件数が検索できる。その中でも『ロビンソン・クルーソー』からの引用が際立って多い、というのである。その数、実に1341件。同じく古典として名高い『ガリバー旅行記』(608件)と比べても格段に多い。これは何を意味するのか?

 実は「オックスフォード英語辞典」が作られた背景には、英語そのものの正当性を確認しようとする、いかにも19世紀的な、愛国的な機運があった。そういう辞書に『ロビンソン・クルーソー』からの引用が多いということは、辞書制作にかかわった人々の何らかのイデオロギーが反映されているということではないか? だから引用例を検分してみれば、人々がデフォーのこの作品に、どのような意味を担わせようとしたかが暴き出せるのではないか、というのである。

 こうして服部は、'our'とか'plant'といった一見どうということのない単語から、'brutality', 'historiographer'といったいかにも意味ありげな単語に至るまで、単語の選択や語義説明などのいちいちにこだわって、その背後に潜む辞書制作の思想のようなものをえぐり出していく。たとえば'plant'について、服部は次のような考察をする。

plantについては『ロビンソン・クルーソー』全体で68回この語が使われているうち、植民地主義的な意味で使用されている回数はほとんどない(もしくは比較的曖昧なplantationという語が多い)。それにもかかわらず、この「開拓者や植民者として住みつく」の意味の箇所が選択されているのは注目すべきである。
たしかにおもしろい。実に地味な作業をへて得られた見解だが、ここには渋い輝きを放つ、いかにも英文学的な発見の感動がある。

 もちろん、一見何の変哲もない常識や習慣と見えるものの背後に、「イデオロギー」と呼ばれるような特定の考え方や偏向を発見するというアプローチは、服部の独創ではない。「オックスフォード英語辞典」についても、すでに10年以上前にこうした研究はなされている。この20年くらいは、英文学的風土では盛んに「愛国心」とか「帝国主義」とか「標準語」といったキーワードが使われ、これらの概念を切り口にして、作品の受容過程でどのように作品が作品として成り立っていったかを明らかにするという作業が継続されてきた。そもそも「イデオロギー暴き」は、ヨーロッパの学問で広く採用されてきた発想法でもある。

 しかし、ときにはキーワードとキーワードの語呂合わせに終始したり、いたずらに難しげなしかめ面をして威張る、というものも見られる。これに対し、服部の作業は実に地味であり、具体的であり、しかも発見的でもある。これぞ、『ロデリック・ランダム』と『ロデリック・ハドソン』を間違えて読んでしまった人らしい、地に足のついた研究と言える。これぞ英文学的。

 「イデオロギー暴き」は、マンネリ化するとまったく刺激的でなくなる。英文学研究にはマンネリ化をやさしく受け止める寛容さがあると同時に、そうしたマンネリに激しく退屈する不機嫌さも潜んでいる。また、一見つまらなそうで地味な研究にうんざりすることもあれば、偏執狂的な執着を受け入れる度量もある。ほんとうのところ、そういう批評方法のせめぎ合いや地盤変動のようなものを待望する空気こそが英文学研究的と言える何かなのかもしれない。きわめて日常的かつ散文的な世界に住み着きつつも、しぶとく知的発見に飢える、そんな芸当があっても悪くない。


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