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2008年02月25日

『私』谷川俊太郎(思潮社)

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「無言で語る」

 やっぱりこの人は違うな、と思う。
「うまい」というのは詩人の場合はあまり褒め言葉にはならないのかもしれないが、谷川俊太郎については、つい「うまい」と言いたくなる。それが嫌な意味にもならない。

表題作である巻頭の「私」という連作は、「自己紹介」という作品から始まる。

私は背の低い禿頭の老人です
もう半世紀以上のあいだ
名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問詞など
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから
どちらかと言うと無言を好みます
五行連句の詩なのだが、こんな調子でぶつぶつ言っているようで、連句の最後の一行にかけては必ずちょっとひねる、というパタンになっている。ただ、ひねりつつも言いたいこともしっかり言う。三連目の終わりの「私にとっては睡眠は快楽の一種です/夢は見ても目覚めたときには忘れています」もなかなかいいが、とくに最後の連が、うまい。
ここに述べていることはすべて事実ですが
こうして言葉にしてしまうとどこか嘘くさい
別居の子ども二人孫四人犬猫は飼っていません
夏はほとんどTシャツで過ごします
私の書く言葉には値段がつくことがあります
これははっとする。ひねりつつも言いたいことを言う、というパタンが、そうか、こういうところにたどり着くのかと思わせる。斜に構えているようで、意地をはっているようで、プライドなのか、意志のようなものなのか、「え、そんなこと言っちゃうの!?」という無防備なものがちらっと露出する。しかし、もちろんそこも計算済みなのだろう。

 谷川は用心深い詩人である。基本的にパタンで書くから隙がない。非常に合理的で美しいフォームを持った打者と同じで、どんな球が来ても対応できる。たとえ凡打に終わっても、打球は鋭い。少なくとも三打数に一回くらい、つまり最低でも一試合に一回はヒットを打つから、たいへん頼りになる感じがする。客を呼べる。谷川は日本で唯一、詩を書くことで食っていける人だ、ということがずっと言われてきた。

 それにしても、谷川のパタンの操り方はにくい。パタンの根底にあるのは基本的には「連続の威力」で、タンタンタン、タンタカタンとこちらを誘い込み、導いていくのであるが、そこにどうヴァリエーションをつけるかで、華やぎがぜんぜん違うのである。

「アフタヌーンティ」という店で
熱いチャイを飲みながら思った
意味がヒトの心を黴のようにおおっている

むかし言葉はもっと無口だったのではないか
ただそこにあるだけだったのではないか
意味に打ちひしがれず 欠けた茶碗のように

流れているBGMとは違う音楽が
かすかに鳴っている
私の深みで


「…と思った」という書き方は一種のお約束だから、こちらも「じゃ、お手並み拝見」という気分になる。そこから、なお、際立った何かを言ってみせる技にはスポットライト慣れした熟練を感じる。

 この「ただそこにあるだけだったのではないか」の、颯爽とした淋しさのようなものは、今回の詩集の通奏低音となっているようだ。詩集中、かなり存在感のあった「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」という作品でも、とくにインパクトが強いのは次の部分である。

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば
子どものころ住んでた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに
ごめんね


谷川のパタンの今ひとつの旨味は、こうした小さな「呼びかけ」、いや、「話しかけ」の身振りにある。そう、谷川の詩は、実にフレンドリーなのだ。自分が変に感動してないから、のめり込みすぎてないから、会話が成立する。だからこちらとしても、ちょっと突っつかれたり、ひねられたりするのがたいへんこたえる。

 でも、全然感動してないのだったら、そもそも詩なんか書かないんじゃないかなという気もする。いくらその言葉に「値段がつくこと」があっても。どうやら感動はしても、そのことに「無口」でいたりする詩の書き方があるのだ。本書は、そのことをあらためて語って見せたという詩集なのではなかろうか。 


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2008年02月12日

『宮本輝全短篇』〈上〉〈下〉宮本輝(集英社)

宮本輝全短篇〈上〉
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宮本輝全短篇〈下〉
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「感情のリズム」

 最近の若者は宮本輝を読むのかなあ、なんて思う。
 もちろん「泥の河」や「蛍川」といった作品は高校の課題図書リストでも常連だろうが、宮本の短編作品を集成した今回の『宮本輝全短篇』をめくってみると、長編に比べて私小説的色彩の強い短編の層の厚さがあらためて目につく。上巻ではとくに「幻の光」が印象に残った。上記二篇とならんで初期の宮本を代表する作品である。

 内容はたいへん暗い。
 主人公は32歳になる女性で、一人称語りである。7年前、夫が不意の自殺を遂げた。女にとってはこの死はずっと謎で、女の語りはこの死の意味を説き明かそうとするかのように自身の幼年時代に遡ったうえで、そこから富山に嫁いできた現在までを辿るという体裁をとる。

 宮本は描写がすごい。夫の礫死体を描くところなど、抜き差しが絶妙である。

靴が片一方とアパートの鍵だけが遺留品で、その二つは間違いのう、あんたのものやった。死体はもう復元でけはんくらいばらばらに散らばってて、わたしには見せてくれへんかった。あくる朝、足の指がみつかって、その指紋から、死体があんたであることが確認されたんでした。
関西弁の妙な暢気さと冷たさが効いている。こういうところ、三島由紀夫みたいにごてごて描いたら台無しである。建物にこだわるところも宮本らしい。
 当時、わたしら一家は尼崎の阪神国道沿いの大きな木造アパートに住んでました。ちょっと変わった作りのアパートで、もともと道をはさんで並んでた長屋の上に、そのまま大きなアパートを載せるように増築してひとつの建物にしてしもたんや。そやから、アパートの中に国道と裏通りにつづく地道がつづいているというけったいな建物やった。その年中陽の当たらん地道にはいっつも裸電球がともってて、道の土は絶えずじめじめと湿って、いやな臭いを漂わせてました。地道の上は二階の廊下で、人の歩く音ががんがん響いてた。近所の人は〈松田アパート〉というちゃんとした名前では呼ばずに、〈トンネル長屋〉と呼んでた。
こうした描写の端々からもうかがえるように、宮本の作品のモチーフになるのは死であり、病気であり、貧乏であり、日陰であり、労働であり、さらに言えば非情とか、アイロニーとか、絶望とか、列挙してみるとほんとうに救いのない世界なのだが、にもかかわらず、読んでいて意外と陰々滅々たる気分にならないのが不思議である。むしろ軽い高揚感さえおぼえる。

 「幻の光」でおもしろいのは、夫の死をめぐる「どうして?」という回想が、いつの間に「わかった」「わからない」という探偵めいた謎解きを遙かに逸脱して、何とも気まぐれな彷徨へと変化してしまうところだろう。絶望しきるのでもない、といってカラッと楽天的になるのでもない、とにかく感情のリズムみたいなものが右へ左へと語りを揺すりつづける。たとえば夫のやぶにらみを描くところがある。

「あっ、またひんがらめになってる」
 何かをじっと眺めたあとに、ときどきあんたの左目が外に寄ってしまうことがあった。一時的なやぶにらみになってしまうんやけど、そのときの左目は、どきっとするほど外側に向いてしもて、わたしは思わず大きな声でそう言うたんでした。
語り手はこのやぶにらみを自殺と結びつけようとする。
「きゅうっと重とうなるけど、痛いことはあらへん。そっとしといたほうがええんや」
 あんたの言うたとおり、それから三十分もせんうちに、元通り直ってしもたんやけど、わたしはさっきの、あんたでありながらあんたではない別の顔が、いつまでも心に焼きついて消えへんかった。その、ときどき変な発作をおこす目が、じつはあんたの本性なんやと、なんでそのとき思い当たることがでけへんかったんやろ。それから十日後に、突然自殺してしまう気配を、なんでわたしは、外側に向いてしもた左目から察してやることがでけへんかったんやろか……。
しかし、ここで「ときどき変な発作をおこす目が、じつはあんたの本性なんや」と言う主人公が看破してみせるのは、死んだ夫のことであるよりも、まさに彼女自身のことなのである。急にやぶにらみから意味を読み取ってしまうような、あるいはそもそもやぶにらみを目撃してしまうような、つまり世界と不意に出逢ったり、変なことを直感してしまう巫女のような感応性が、「幻の光」の語りの特長であり、その魅力なのである。生理の鼓動に身を任せるとでもいうのか、冒頭に出てくる海の波音もいつまでも耳につくし、そういえば夫を轢いた「阪神電車」の音も、ずっと響いているような気がする。

 あらためて見直してみると、電車や自動車といった装置はこの巻に収められた作品の多くに登場する。文字通り寝台車を舞台にした「寝台車」。電車内での遭遇が、親友の妻との不倫に結びつく「不良馬場」。トラックに乗った西瓜売りと少年との交わりを描く「西瓜トラック」。高架下の妙な理容室を描いた「蝶」。交通整理のアルバイトを扱った「トマトの話」。電車や自動車など重工業的運動との共鳴の中で描かれる人間の生命リズムが、どうやら作品の基調となっているらしい。

 ちょっと変わったつながりだが、それはある種の運命観ではないかと思う。宮本のどの作品でも中心にあるのは死だが、さらにその後ろにありそうなのは、著者がずっととりつかれてきて、考えてみはするものの答えのでない、だから小説にする他ないような得体の知れない振動とか揺らぎの感覚ではないだろうか。それが一番の迫力をもって描かれるのはやはり「幻の光」である。

 そのとき、黒々とした空も海も、波しぶきも潮のうなり声も、氷のような雪片もかき消え、わたしは夜ふけの濡れそぼった線路のうえのあんたと、二人きりで歩いていたのでした。それは、どれほど力いっぱい抱きしめても、応じ返してはくれへんうしろ姿やった。何を訊かれても、どんな言葉をなげかけられても、決して振り返らへんうしろ姿やった。血をわけた者の哀願の声にも、決して耳をかそうとはせんうしろ姿やった。ああ、あんたは死にたいだけなんや、理由なんか何にもない、あんたはただひたすら死にたいだけなんや。そう思た瞬間、わたしはあとを追うのをあきらめて、その場に立ちつくしてしまいました。あんたはみるみるうちに遠ざかって行った。

死ぬにもエネルギーがいるとはよく言われることだ。この箇所でも歩くリズムと死への衝動とが重ねられていることからわかるように、運動と死とは表裏をなしている。「ただひたすら死にたいだけなんや」という一節など、ここだけ見ると実に陰惨だが、そのあとほどなく、ふたり目の夫が「人間は、精が抜けると、死にとうなるんじゃけ」と呆気ないような言い方でつぶやく、そうすると読んでいて、あ、そうか、というような気になる。

 何が「あ、そうか」なのか、よく考えてみるとわからない。でも、ここまで読んでくるうちに、「ただひたすら死にたい」という感じが波の音のように、あるいは電車の振動のように自然に受け入れられてしまうのである。

 答えを書かずに済ますのも宮本流なのだろう。そのかわり、答えを補ってあまりある感覚の振幅に酔ったような気分になる。やっぱり文章がうまくないと話にならないですから、などというと身も蓋もないのだが、やはりこの筆さばき、大したものだと思う。



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