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2008年01月23日

『荒地の恋』ねじめ正一(文藝春秋)

荒地の恋 →bookwebで購入

「詩的、から遠く離れて」

「口コミ読み」は読書の大きな楽しみである。公の場を自覚した「よそ行き」の書評も参考になるが、知り合いが「こんなものがありましてね」というのを、「どれどれ」と手にとるときには、その本に感動したり失望したりした知り合いの読書体験が、頁上にうっすらと重なって見える。「そうか、きっとこういう部分に興奮したのだな」などと、おそらくは誤った推測などしながら、行間というよりは「行外」を読んでしまう。

『荒地の恋』は出版当初から筆者の身近でも話題になっていたが、このたび、北烏山に住む知人の翻訳家が大絶賛していたので、読む気になった。終始涙ぐみながら読んだとのこと。そこまで言われると、せめてのぞいてみようかなという気になる。この北烏山の翻訳家さんはたいへんエネルギッシュというか、フィジカルというか、波瀾万丈の人生を送ってこられた方で、洗濯機を持って家出したことまであるのだが、どうやら『荒地の恋』も家出の話らしい。

 一応小説。でも、評伝としても読める。記録としても読める。詩論にもなっている。文学史でもある。いずれにしても、もし読むのだったら、とにかく最後まで読んで欲しい作品である(ただし、最後だけ、というのはナシ)。途中が気に入らなくても、登場人物に不満でも、200頁をすぎたあたりから、いろんなことが、まるで人生の本当の果実に舌が届くような気味でわかってくる。それが甘いのか、酸っぱいのか、苦いのか、読む人次第だろうが、筆者は何より「北烏山の翻訳家はどう思ったのだろう?」と考えながら読んだ。

 主人公は北村太郎。荒地派の詩人である。50代の半ばにさしかかり定年も間近。妻と娘、息子がいる。一戸建てもある。人生の難所を乗り越え、静かに充実した日を送るはずの年頃とも見える。長年書きためた詩作品を全詩集としてまとめることにもなった。しかし、その作品の数のあまりの少なさに「たったこれだけかあ」と思わず声を発した友人がいた。そのセリフを不吉な兆しとして響かせながら、物語は始まる。

 こともあろうに北村は、中学時代以来の親友田村隆一の妻と関係を持つのである。明子は田村の四番目の妻。女出入りの激しい田村に似合う、毒が効いて癇の強い女性で、それだけにひねりの効いた魅力がある。明子は田村との生活にくたびれていた。そして原稿の受け渡しをきっかけに、押しかけるように話しをしに来るようになった明子から、いつしか北村は離れられなくなっていく。

 読み始めてまず感動するのは、詩人たちを主役にするはずの作品世界の、驚くべき散文性である。これは著書ねじめ正一の最大の功績だと思う。何しろ冒頭のシーンは、鮎川と北村がゴルフから帰ってくるところなのである。いくら何でもゴルフとは!せめてテニスにしろよ!と北烏山の翻訳家は思ったかなあ、などと邪推する。ゴルフほど、50過ぎの一戸建て家族持ち男性にぴったりというか、「オヤジ的」なものはないだろう。しかも、新聞社の校閲部に所属して地味な生活を送り、酒も呑めない北村が、若い頃から性欲はそれなりに強かったという。玄人の女性の世話になったのも早い。14歳ではじめて詩を書いてから全詩集を出すまでに、個別の詩集として出したのはたったの二冊。詩を書いているときよりも、ただふつうに生き、ふつうに通勤し、ふつうに性欲にかられ、ふつうにゴルフをする時間の方がはるかに長かった。そこにはごく人並みの鬱屈があり、退屈があり、平穏があった。こう考えると、定年を前にして「たったこれだけかあ」の声を聞きながら思わず道を踏み外し、妻子を捨てて男癖の悪い女の元に走る北村の姿が、哀しいほど類型的に見えてくる。

 しかし読み進めるほどに、およそ詩的ということとはかけはなれて見えるこの散文的な世界の何とも言えない味が、じわじわとしみ出してくる。無頼派詩人を気取りながらも、金に汚く計算高い田村隆一。離婚しよう、と提案すると、急に弱気になって「パパ。私何か悪いことした」と怯える妻に、「なあんだ、遠慮するんじゃなかった」とかえって安心する北村。はじめから無理のあった明子との同棲はやがて経済的困窮を引き起こし交通費にも困るほどになるが、北村は恥ずかしくて貯金のある明子に「金貸してくれ」の一言が言えなかったりする。その明子の貯金は、株で儲けたものだ。

 詩人などというが、北村太郎はごく平凡な人生を生き、そのときどきにたまたま詩を書いた人なのだ。何の神聖さも、神秘も、謎もない。だいたい、明子とのことがあって、急に詩が書けてしまうあたりが、あまりにわかりやすすぎないか。

暮れになり、貯金通帳に記された数字のあまりの小ささに気づいて、北村は呆然とした。呆然としたが、こういうときいつも襲ってくる恐怖はなぜか感じなかった。鮎川は死んだ。俺もいつか死んでもいいのだ、と思った。家を出て明子と暮らすようになって詩がどっと書けた時期があり、今また詩が遠のいている。北村にとって詩とは人生のうねりの共鳴器であって、詩だけが、あるいは人生だけが唄うことはないのだ。
 おそらく著者のねじめ正一は、かなり注意深く「詩的なもの」を後景に退けている。実は北村には前妻があった。妻と息子とを海の事故で亡くしているのだ。しかし、この悲劇に話を収束させたなら、この作品はいたずらに美化されただけの本当の意味で類型的なストーリーに見えてしまっただろう。当然北村はこの事件のことを引きずっているが、ときには忘れることもある。ときには思い出す。新しい女が現れれば夢中にもなる。そういう現実の果てに死期が迫る、そこへ「あなた、わたしを生きなかったわね――どこかから死んだ最初の妻の明子の声が聞こえる」というような一行がふっとあると、読んでいて怖ろしいような気分になる。(ですよね?北烏山さん)

 やはり、最後の100頁がいい。北村の散文的世界が、きわどく詩的な恍惚を避けながらも、抜き差しならぬ領域に達するのだ。
 たとえば鮎川の死を知らされた北村は、なぜか腕時計を見る。

 あまりに不意打ちすぎて、北村は諒の言葉がすぐには理解できなかった。
「諒くん、それ本当かい」
 とっさに腕時計を見た。なぜだかわからないが時刻を確かめねばと思ったのだ。安物のカレンダー付き腕時計は十月十八日午前九時十五分を指していて、コツコツ動く秒針が北村の見ているあいだに12の数字の上を通り過ぎていった。(中略)とすると、まだ十一時間しかたってないじゃないか。北村は腕時計を眺める。正確には、ええと、十一時間三五分だ…いや待てよ。午後十時四十分というのは病院に着いて医者が確認した時間にすぎないから、倒れた時間から考えると、ほぼ十二時間だ。鮎川が死んでから十二時間。俺は何も知らずに、鮎川がいない時間を十二時間も過ごしていたわけだ。
校閲部にいて、辞書を読むのが趣味になってしまった北村が、数字に示す無意味とも思えるこだわり。それは誰かが死ぬと、まずは死亡広告の心配をするという性分にも通ずる、役には立たないけれどまさに「生」の匂いのする仕草なのである。不治の病を得た北村がそのことを知らずに銭湯の脱衣場で観察する、自身の「老人性のシミ」の浮き出た裸体のシーンももちろん凄惨。だが、筆者が何と言っても感動したのは、北村が明子と別れた後、最後の愛人として付き合った阿子の視点で書かれた一節である。
 神楽坂の出版クラブというところで北村さんのお別れ会がある。十一月六日は金曜日で、休みを取ろうと思えば取れる日だった。私は行くことにした。受付で会費を払った。順番待ちの人が多くて驚いた。
これ、どこがいいのか。「受付で会費を払った」というところである。六十になり骨髄腫に冒されながらもなお性欲を失わなかった北村が、会えばホテルに直行するというやり方で付き合いつづけた秘密の愛人が若い阿子であった。明子との関係が文壇ゴシップの格好のタネとなったのとは対照的に、阿子とのことはほとんど誰にも知られず、しかし、北村の「生」的な部分を支えつづけた。その阿子は当然ながら、お別れの会の主催者になることはできない。招待状なども届かず、場所や時間も公式な告知で知ったのだろう。だから受付でも名前を書き、会費も払わなければならない。そして北村の弟に「私、北村さんの恋人だったんです」などと自分から名乗っていくことにもなる。北村の弟はその言葉をどこまでまじめにとったのか。阿子はこの会から早々に引き上げると、「せっかくの休みだから」と、何も知らぬ夫と娘と外食をしに行くのである。

 こうした人物たちは、実人生では主役というヒロイックな座から下りることでこそ、作品世界の主役たりえているのかもしれない。実人生で彼らにかわって主役となるのは、どうしたって別の人間だ。実人生で主役としてふるまってしまうことで、この作品では脇役扱いにならざるをえなかった人。のっけから翻訳をめぐる汚い操作や金の取り方に驚かされるが、何と言ってもすべての人物たちのからみあいを引き起こし、悲劇や喜劇を生んでいるのは、上手に後景に追いやられた田村隆一ではないかと思う。明子がまるで魔物でも振り払うように、田村は寂しがり屋なだけだ、始終人をまわりにはべらせて人気者でいないと気が済まないのだと繰り返すのも、結局はそのオーラに太刀打ちできないからではなかろうか。その人間としての皮相さやだらしなさ、計算高さをあげつらって解毒しつづけなければならないほど、田村隆一という人間にはたいへんたちの悪い引力があったのかとつくづく、しみじみ思う。これは詩がうまいのどうのということとは、たぶん別の話である。世の中って、たしかにそういう風にできてますよね、北烏山さん。


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2008年01月07日

『How to Read a Poem』Terry Eagleton(Blackwell Publishing)

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「詩を語るイーグルトン節」

 タイトルは直訳すると「詩の読み方」とか「英詩のわかり方」くらいか。
 え、あの理論派イーグルトンが詩の入門書?とびっくりするかもしれないが、英米の大学ではかつては、英文科に入った人間がまず最初にやらされたのが、詩などのテクストを用いたpractical criticism(実践批評)だったのである。practical criticismとは批評の基礎トレーニングみたいなもので、紙と鉛筆を手にいきなりテクストと面と向かわされ、「さあ、何が言えるかやってみましょう」と分析をさせられる。野球でいえば、キャッチボールのようなもの。あらゆる批評の基礎たるべきものだと筆者も思う。テクストとしても、詩がちょうどいい。

 イーグルトンも若い頃はこれをやらされた。それが今では、すっかりそういう伝統が廃れてしまって・・・という嘆きから本書は始まるのだが、「そりゃ、あんたのせいだろ」と言いたい気がしないでもない。少なくともLiterary Theory(邦訳『文学とは何か』大橋洋一訳)を読んで、よし詩を読もう、という気になった人はあまりいないのではないだろうか。

 では本書は、作品テクストに対するイーグルトンのせめてもの罪滅ぼしか、というと、答えはイエス & ノーである。目次を見ればわかるとおり、冒頭に「批評の機能」という章があって、その次にやっと「詩」が来るのだが、その章タイトルも'What is Poetry?'(「詩とは何か」)。つまり本書のタイトルのHow to Read a Poemとは裏腹に、イーグルトンが俎上に載せようとしているのは、ひとつひとつの作品ではなく、詩というジャンルそのものなのである。

 もちろん本人もそんなことはわかっている。そもそも「ひとつひとつの作品」だの、「ひとつひとつの体験」だのを後生大事に味わうという態度に、近代特有の「個物信仰」が隠されているとの説明。それはイデオロギーに過ぎない、というのである。というわけで、本書の前半は詩の入門というよりは、詩をきっかけにした批評入門である。20世紀欧米の文学批評が詩の分析をひとつの出発点にしていたことをあらためて思い出させてくれはするものの、そして詩の引用もあちこちに散りばめられてはいるものの、話はだいたい「倫理性」とか「フィクション」といった大きい問題に戻っていく。中盤から後半にかけての、イーグルトン自身によるテクスト分析の柱となるのも、内容と形式がいかにぶつかり、ズレルかという話で、話題の芯は個別テクストというよりは「フォルマリズム(形式主義)」そのものである。

 たしかにイーグルトンによる大きい問題の扱いは上手である。おそらく高校生や大学生をターゲットにしているのであろう本書は、著者のいつもながらのわかりやすい文章をさらに噛み砕いた軽快なもので、実になめらかに読める。その文体は、言ってみれば「~なわけさ」口調で、個別の問題に深入りしたり執着したりせず、「こんなことくらいわかってるもんね」とばかりに、ちょっと斜に構えて距離をおきながら次々に問題を分類し、つなげ、組み立て直していく。詩を出発点にしながら記号とか、形式とか、イデオロギーといった話に軽々と飛び移っていく様を見ていると、この人ほんとにシステムの話が好きなんだなあ、と思わせる。まさに根っからの整理屋である。

 ためしに以下にその一節を、「~なわけさ」口調で訳出してみよう。イーグルトンはだいたいにおいて誰かに難癖をつけるときに本領を発揮する傾向があるが、ここではF・R・リーヴィスによるキーツの「秋へ」という詩の解釈を批判している。リーヴィスは「秋へ」の'moss'd cottage tree'という表現をとりあげ、その子音の多さが節くれ立った樹木の表面や葉の茂りぶりを連想させ、cottage treeのところなどはとくに、かりっと噛むと甘い液がしみ出してくる熟したリンゴの歯触りを感じさせるのだと解釈しても「まんざら珍奇な読みではあるまい」と言う。これに対しイーグルトン。

 珍奇といえば、これほど珍奇な読みもない。リーヴィスはどうやら節くれ立って頑丈な木に葉が茂っているという図を信じて疑わないみたいだけど、詩にはそんなこと一切書いてないし。それじゃまるで、ハムレットはそばかすだらけで鼻がへし折られていたと勝手に信じて疑わないのとかわらないわけさ。  リーヴィスからすると、ほんとうの詩の言葉はリンゴみたいに実が詰まって熟していなきゃならないわけで、そうすると読書というのは噛むことと同じだなんてことになるわけよ。
ここはincarnational fallacyを扱ったセクションである。incarnationとはキリスト教用語で「受肉」、つまり神が人間の姿をとって現れることを示すが、この場合は、詩の言葉が対象物を「受肉」する、つまり、言葉そのものにモノが顕現するという考え方を表す。当然ながらイーグルトンはそうしたポストモダン以前の思考法をばっさり切るわけだが、実はここ、本書の中では一番「脆弱性」の高いところではないかとも思う。

 というのも、イーグルトン自身の実践批評は内容と形式がいかにズレるかを指摘してオチとすることが多いのだが、その出発点としてあるのは、むしろ「受肉」の感覚であると思われるからである。「受肉」にこだわってしまうからこそ、そこからの逸脱がドラマチックだったり、おもしろかったりする。イーグルトンのシステム論が、テクストとの接触なしには成り立たなかったのと同じで、つねに賢く目を光らせるだけではなく、どこかでは錯覚したり、騙されちゃったりする愚かさがないとそもそも文学の話にならないのではないか。ロトマンあたりには随分寛容なわりに、リーヴィスとなるとやけにむきになっちゃうイーグルトンの、ある種の世代性を感じさせるところである。

 とはいえ本書には数多くの美点がある。とくに韻律の扱いは、「韻律にばかり注目したって、詩の形のことは全然わからないわけさ」というメッセージがちゃんと伝わってきて、たいへんいい。引用もいい(詩も批評も)。「倫理性」の意味を「何がいいとか悪いっていう話だけじゃないわけさ」と何頁にもわたって丁寧に説明してくれるところもいい。イーグルトンの本領発揮は前半の批評理論概説だろうが、途中で若かりしイーグルトンの戯曲作品からの一節が照れ混じりに引用されるなんていう一幕もあるし、最終章ではウィリアム・コリンズやウィリアム・ワーズワスなどの自然派詩人を題材に、しっかり実践批評のお手本が示されてもいる。「みなさん、詩を好きになりましょうね」なんていう押しつけがましさはほとんどないし(もう少しあってもいいのにと筆者は思ったが)、むしろ詩を好きになれない人が、そういう自分を理解するのにちょうどいい本である。目次でみるよりは、各チャプターのバランスに濃淡があるものの、全体としては「批評入門・英詩篇」として重宝されるのではないだろうか。



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