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2007年11月20日

『どうで死ぬ身の一踊り』西村賢太(講談社)

どうで死ぬ身の一踊り →bookwebで購入

「ふつうの小説には登場できません」

 西村賢太の名前はどこかの書評で知った。その評はたいへん好意的なものだったし、その後もちょくちょく名前を聞いたので何かの折にネット注文しておいたのだが、いざ現物が到着してみると、あらためてみるそのタイトルがあまりにくどく、また、それに輪をかけて装丁が強烈というか、俗悪というか、期待したものとはかけ離れているようにも思え、一頁もめくらないまま本棚の見えないところに押し込んでしまった。それからは根拠もなく「この本、縁起が悪そうだな」という印象を持ち、その姿が現れるたびにわざわざ再び見えないところに押しこんで隠すということが続いた。今から思えば、これも逆オーラみたいなものだったのかもしれない。それで一年以上たち、読む前から本体がぼろぼろになってしまったのだが、ちょうど西村氏の新しい作品がある賞をとったということらしいので、お祝いの気持ちをこめて、このたび、ついに読んでみた。

 いやあ、すごいです。
 みなさん、装丁にだまされてはいけない。いや、装丁はたしかに嘘はついてはいないのだが、それでもだまされたと思ってせめて三分の一くらいまででも読んでみる。三分の一まで読んでだめだったら、きっと相性が悪いんでしょう。でも後ろ半分はラブ・ストーリーになるので、そこから読むというのも手かも。

 どこが、そんなにすばらしいのか。
 話は至極シンプルである。著者と限りなく重なるのらしいある破滅型のドメスティック・バイオレンス男が、同棲相手の女性から金を搾り取りつつ、日々、酒にまみれた生活を送っている。ただひとつだけ妙なのは、この男、藤澤清造という私小説作家の「マニア」で、藤澤のものとなれば小説作品はもちろん、作品の掲載された雑誌から原稿、手紙、そしてついには墓標まで収集し、さらには藤澤の墓に割りこむようにして、同じ敷地に自分の墓をこしらえてしまう。ふだんは資料収集と称し、ろくな収入もないのに藤澤の郷里の石川県は七尾市にアパートを借り、東京と行ったり来たり。藤澤全集の刊行を目指しつつ、当地でほとんど参加者もいないような藤澤イヴェントを催したり、かつて藤澤の一周忌が催されたのが午後一時だったのか、二時半だったのか、などということについて調べたり考えたりしている。何という執念。何という私生活とのアンバランス。

 筆者はとにかく、こんなすごい文章が書ける人が出てきたことに呆然とするほど感動した。いったいこの日本語、どうやって発明したのだろうと思わせる作家は、町田康とか、車谷長吉とか、最近でもちょくちょく出てきており、西村氏も一種の擬古文のようなものをベースにしているという点ではその流れの上にあるのかもしれないが、どこの方言なのかよくわからない「はな」とかいう怪しげな間投詞のようなものを盛んに使って話しをぐりぐりと進めていく乱暴さには、町田や車谷の芸に勝るとも劣らない生々しさを感じ、とにかく興奮した。

 で、どこかちょうど良い箇所を引こうと思うのだが、西村が俄然そのしなやかな腕力を発揮するのは、どうも同棲相手との顛末を書きこむあたり、とくに自身の性欲やら怒りやら、女のずるさやら可愛さやらを、手段を選ばぬとばかりに片っ端から言葉を拾ってきて描写するところなのである。その中でもとくに印象に残ったのは、そして小説展開の上でも鍵となるのは、主人公が家出した女のパンツで自慰にふける場面である。正直言って「書評空間」のように品のあるサイトにこういう箇所を書きこむのは気が引けないでもないが、思い切って引用してみよう。(少し長いですが)

ある夜は、またそうして酔いが廻って寝室に入り込んだが、押し入れ箪笥の横に置いてあったバスケットを、これは何かとフタを開けてみると、中にはきれいにたたんだ彼女の下着が詰められてあった。それを見ると、全く着のみ着のままで叩き出してしまった自分の所業が今更ながら悔やまれたが、それらのひとつ、濃い紺色のをつまみだしてひろげると、まさか香水でもあるまいが、多分柔軟剤だかのいい匂いが微かに漂ってきた。そしてその芳香に女の体臭めいたものを感じた私は、突如雄心勃々となってきた。ここしばらくはそれどころでもなく、すっかり忘れていたが、考えてみるとこれでもう二十日間近く、女体にふれるはおろか射精すらしていない。見ればそれは見覚えがないでもない、穿かれたときは特に気づかなかったが、その原形は随分と股の前のところの切れ込みが鋭いもので、これはこんなにエロかったのかと改めて知れば、どうにも意地も我慢もなくなってくる。それで、我ながらどうにもあさましいとも薄汚いとも言いようのない話だが、私はその場で女の下着を使い、自らを汚す行為を始め、実際に下着そのものも半ばヤケになり、自分の放出物で、ひどく汚してしまった。

この場面を読んでふつうに発情してしまう男性はあまりいないだろう。一見した状況とは裏腹に、この場面は通常の「エロ小説」的なものとは遠く隔たったところにあるのだ。「…その原形は随分と股の前のところの切れ込みが鋭いもので、これはこんなにエロかったのかと改めて知れば」などというあたりはほんとに泣かせるというか、ほとんど聖なる香りがするくらいに、可笑しく、悲しい。

 考えてみると、私小説というものは語り手の「私」が出しゃばって、他者の介入を許さないような、いわば「ひとりカラオケ」の様相を呈することが多い。ということは、肥大した「私」であればこそ、ひとりでいろんな役をこなす必要も出てくる。私は「私」に拘泥しつつも、小説世界にふくらみやら奥行きやらを与えるために、いろんな種類の声色を使いこなす必要に迫られる。しかし逆に言うと、私小説というジャンルは、ひとつに統一され得ない声の持ち主にとっては格好の舞台だということになる。一般小説の最低単位である「キャラクター」という枠にはとてもおさまらない、妙に分裂した声の持ち主は、私小説にこそ居場所を見出すのではないか。

 西村賢太はまさにそうである、と筆者は思う。こんな声で語っちゃう人は、ふつうの小説じゃ窮屈すぎるでしょ、と。

 ところでこの「パンツ事件」だが、先にも触れたように小説展開においてはとても大事な役割を果たす。主人公は家出した女性を実家まで追いかけていってようやくのことで連れ戻すのだが(このあたりのふたりのやり取りもとてもいい)、やっと帰ってきてくれた彼女に、冗談まじりのつもりで「実はさ…」とパンツの一件のことをうちあけると、彼女が激怒する。

すると、一緒にはにかみ笑いを浮かべてくれるだろう、とばかり思っていた女はこれに激怒し、猛烈な口調で私を詰るのである。
「だって、ぼく寂しかったんだ…」
「寂しきゃ、あたしのパンツで変なことしてもいいって言うのかよっ!あんたバカじゃないのっ」
「別にこれがどこかの家の物干しから盗んだとか、お金出して買ったとか云うんならともかく、おまえのなんだからいいじゃねえか。そんな状態にあったときだし、あとにも先にもこれ一回きりのことにするからいいじゃねえか」
「いいわけないでしょうよっ!なんでそんな気持ちの悪いことすんのよっ!」
 気持ち悪い、とまで言われ、確かにそうかも知れぬ、と、もはや私も返す言葉がなく、自分のしたことの気恥ずかしさに、どうにも項垂れる以外になかったが、女の怒りはなかなか止んでくれず、目までむいてガンガン怒鳴りつけてくる。
 その罵声に、ひたすらじっと耐えていた私も、
「変態!」
と女がほき捨てたのには瞬間カッと頭に血がのぼり、立ち上がりざまに女の横顔を力一杯、引っぱたいてしまった。

この一撃が、後に起きるのらしい出来事(女性が別の男の元に走る)の遠因になるとも思わせるのだが、やはり問題は「パンツ事件」そのものだったのではないか。事態がいったん落ち着いたところで、女性がしみじみと「女にとってあなたがやったようなことって、すごくイヤなもんなんだよ」というセリフを吐くところがあるが、このあたりをきちっと書けるところがこの作家のすごいところである。

 大事なのは、主人公が「女にとってあなたがやったようなことって、すごくイヤなもんなんだよ」という言葉の意味を決して理解はしないということである。だから、翻って、こんなDV男なのになぜこの女性が彼のことをそれまで赦し続けてこられたのかも、おそらく彼にはまったくわからない。この部分、この「わからなさ」を書ききれるかどうかが、多少なりとも恋愛を描く小説の試金石となるのだろう。あらゆる恋愛小説が哀しいのは、この部分においてなのである。

 終始「女」としか呼ばれない同棲相手の女性も実によく描けている。炊事をするときに必ず稲垣潤一を流す癖があるという彼女は、藤澤清造については「ワールドカップぐらい興味がない」のであり(何という絶妙のセリフ!)、なぜ主人公がパンツを汚したのか、なぜ大正の私小説作家なぞにいれあげるのかも、決してわかりはしない。

 三つの短編からなる本書は、構成や終わり方に「??」というところがないでもないが、それも私小説の特権かもしれない。俗悪な表紙も、喧嘩を売ってるとしか思えない作者の「跋」も、こうしてみると必然性があるように思えてくる。

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2007年11月06日

『ノルゲ』佐伯一麦(講談社)

ノルゲ →bookwebで購入

「重量小説」

 総ページ488。最近の純文学系の小説としては長い。重さにして740グラム。小型のペットボトルなら二本以上だ。このペットボトル二本分以上の本書を筆者は一ヶ月間にわたって鞄に入れ続け、通勤時に少しずつその頁をめくるのをささやかな楽しみとしていた。決して難解な小説ではないのだが、一気に読んでしまいたくはなかった。「ああ、今日もこれを担いで行くのか、重いなあ」と思いつつ、まだ終わりたくない、という気分がいつもあった。

 『ノルゲ』は重さを心地良さとして感じさせるような小説である。500頁近い長さの中で活劇が繰りひろげられるわけでもなく、大きなテーマが語られるわけでもない。むしろ大事なのは時間をやりすごすことや、夜や冬や病いを生き延びていくことなのである。この作品を読んでいると、淡々と流れていく時間が実にいとおしく感じられる。文章に目を走らせるだけで、文章を読むことの幸福が味わえるような気がしてくる。

 主人公の「おれ」は小説家。美術大学に留学する妻につきそうという形で、ともにノルゲ、すなわちノルウェーにやってきた。金に余裕があるわけではない。ベッドさえもない部屋。主人公はかつて電気工をしていた眼をきかせて、引っ越してきたこの安アパートの裏側をめくるようにしながら探りをいれ、「棲み家」として整えていく。

 必ずしも日本人にとってなじみが深いわけではないノルウェー。しかし、その風俗習慣のめずらしさを、旅行記の体裁をとりながら描き出すのが眼目というわけではない。小説が進むにつれて、オスロという都市の独特な空気の希薄さに、主人公の過去がにじむように混入してくる。自殺未遂。前妻との争い。工事中の事故。喧嘩。アスベストが原因の喘息。過去が病の形をとって主人公を苦しめはじめ、ついにその病が現在形となる。原因不明の激しい頭痛が主人公を襲うのである。

 佐伯一麦というと、まずは初期の『雛の棲家』、『一輪』、『ア・ルース・ボーイ』といった小説に描かれる壮絶な争いや苦難を思い浮かべる人も多いかもしれない。本書はそうした作品に比べるとはるかに穏やかな空気に包まれているし、たとえば生活費を稼ぐための大事な原稿を日本に送ろうと必死になるあまり、電話会社のショップで電話機のジャッキをかってに差し替え自分のパソコンをつなごうとしてつまみ出されるといった、大江健三郎を思わせるようなコミックな場面も所々にある。しかし、文章家としての佐伯の覚悟は一貫している。最後の私小説家とも呼ばれる佐伯だが、「自分を暴く」といういわば日本文学の伝統芸能とも言える領域を、それにふさわしい文体をたえず求めながら洗練させていく手並みにはほんとうにほれぼれとする。存命の作家の中でももっとも文章に品を感じさせる人ではないだろうか。

 かつて佐伯が同じような描写をいくつもの小説で使っているという批判がなされたことがあった。もちろん自己模倣は作家がもっとも陥りがちな罠なのだが、佐伯の場合には、同じことを何度も何度も書きつけ、文字と文字が重なり合いつつ、少しずつぶれる中で研ぎ澄ませ発展させていく、というところがある。

 中には、何度でも同じことを書くべき作家がいるのだ。佐伯の文章には石に文字を刻んでいくような迫力がある。書く/語るという作業は遅々として進まない。連想が軽やかに飛んだり、意表をついた言い回しやセリフが爽快感を呼ぶこともない。むしろ語り手は不器用で、くどい。重いのだ。その重さがもっとも露出するのは、語り手が病を意識するときだろう。

「ヴィーゲラン公園前」の停留所で路面電車を待っている間、開けることが出来ない右眼の目蓋を右の手で覆うようにして痛みを堪えながら、おれは途方に暮れる思いがした。さすがにこの状態は、医者にかからなければならないだろうか。だが、保険証を持たない身なので、それはなるべく避けたい。もっとも命に関わるようなら、そんなことを言ってもいられないが。ここまで喘息も何とかやり過ごし、インフルエンザの流行した厳冬も乗り切って来たというのに、滞在もあとわずかな今となって、こんな羽目に陥るとは……。それにしても今日はやけに路面電車が来るのが遅く感じられる。アパートメントへ辿り着くには、途中で路面電車を乗り換えなければならない。その間に、どうにか我慢できているこの痛みが耐え難くなったらどうしようか……。

それが私小説家の生業というものなのだろうが、佐伯の「おれ」という一人称からは、かすかに「おれ」を持てあまし、突き放し、しかし、その振る舞いをつぶさにみつめながら執念深く写し取っていく、という作家の目が感じられる。こうした心理描写の、じれったいほどの丁寧さと、大げさに鮮明な輪郭、それゆえにこそ実現される彫りの深さには、造形美術を思わせるひたむきな寡黙さが表れている。その一方で、そうした執拗さの、その鈍い重さが、低い声で奏でられる魅力的な音楽のようにも響く。

 佐伯に病がつきまとうのも当然なのだろう。「病む自分」を書くというのは、私小説の原点である。病の意識を忘れたら、この作家には書くことはなくなるだろうし、書く必要もないもないのかもしれない。ただ、病や重さというといたずらに深刻になるばかり、かえって鼻持ちならない自己耽溺に結びつきかねないところ、佐伯の魅力は、それが得も言われぬ「不器用さ」によって浄化されているところなのである。「下手」というのとはぜんぜん違う。小島信夫のような「ヘタウマ」でもない。語ることをめぐる過剰な謙虚さと力み。そして執念。入念にストレッチをし、準備体操と練習とをこなす様子が、そのまま文章の構えとなって現れ出ている。ぜったいに「うまい」などとは言わせないような、語ることをめぐる苦しさの身振りが、現代日本語の何かを守ってくれているような気がする。

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