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2007年10月28日

『The Zoo Father』Pascale Petit(Seren)

The Zoo Father →bookwebで購入

「英詩の二大派閥」

 筆者の専門は英米詩研究なので、たまにはこの方面の本を取り上げてみよう。

 英詩の言葉遣いを思い切り単純化して、ざっくりふたつの流派に分けるとどうなるか。一方は滑らかでつるつるして口当たりの良い「流麗派」、もう一方はごちごちして、どたばたとうるさく落ち着かない「喧噪派」となるかもしれない。

 流麗な詩は読んでいて気持ちがいい。安心できるし、陶酔感にもひたれる。が、酔っぱらったときにあまり頭が働かないのと同じで、陶酔したまま語れる内容となると、どうしても制約が出てくる。言葉を流麗にするためには、いろいろと犠牲を払わなければならないのだ。

 これに対し、喧噪派の詩の特徴は、何でも言えるということだろう。喧噪派の詩人は難しい理屈を述べるかと思うと、怒ったりわめいたりする。あるいは常人には思いつかないような突飛なことを口走る。異常心理あり。人格分解・崩壊あり。要するに雑音や不協和音までとりこんで詩に変換してしまうのだ。肉でもパンでも靴でも放り込んでしまえる鍋のような詩。

 史上最も有名な喧噪派は17世紀のジョン・ダンという詩人である。この人の詩では愛し合う恋人同士はコンパスになっている。だからふたりが近づくと「おっ立つ」。離ればなれでも、真ん中の「彼女」がしっかりしていれば、男の方はきれいな円を描いて元の場所に戻ってくるさ、なんていう、どこまで本気なのかわからないことをべらべらとしゃべる詩である。

 流麗派の詩を読んだあとにダンの詩などを読むと、何だかぜんぜん耳に馴染まなくて、すごく変な感じがする。違和感が強くて、どう乗っていいのかわからない。で、やだなあ、と思って投げ出すとそれで終わりなのだが、「そうか、この<変な感じ>そのものを味わえばいいのか」という境地にまで達すると、何かすごく珍しい世界に足を踏み入れるような、ぞくぞくっとする興奮が感じられてくる。アクの魔力とでも言おうか。こうなると流麗派の詩では物足りなくなる。(ダンの詩は、岩波文庫の湯浅信之訳『ジョン・ダン詩集』をはじめ、数多く翻訳されている)

 英詩の歴史とは、流麗派から喧噪派へと覇権が移るプロセスだったと言っても過言ではないと思う。日本の現代詩もそうかもしれないが、詩というものは先鋭になればなるほど、方法について意識的になったり、様式や言葉そのものの破壊にむかったりと、どうしても「喧噪」に傾くものだ。変態自慢とでもいうのか、「こんな事もやれるぞ」、「これならびっくりだろ」という風に、神経を逆撫ですることに血道を上げるようになる。詩に限らず、文学というものに人が求めるのは、ただ、うっとり安心することよりは、ちょっとざらついたり、毛羽だったりすることなのかもしれない。

 筆者もひたすら流麗なだけで歯ごたえのない詩というのは、あまり楽しめない。ただ、たいへん流麗で気持ちいいわりに、何だか変なことを言ってる、という作品がたまにある。今回掲げたのはそういう作品である。

 著者のパスカル・プティーはフランス生まれのウェールズ育ち。彫刻家でもある。The Zoo Fatherというタイトルは、『動物だらけの父』くらいのニュアンスだろうか。というと、何かほのぼのしているように聞こえるかもしれないが、この詩集に収められているのは父を呪い殺すような作品ばかり。いや、呪い生かす、と言った方が適切か。

 どうやら語り手の父には死期が迫っているらしい。ベッドに横たわった父を看病しながら、語り手は父の醜悪な行動や、忌まわしい過去を、誘惑的なまでに流麗で、甘美で、官能的な言葉にくるみ込むようにして語っていく。流麗な言葉の最大の魔力は、それがつるつるっと麺みたいにつながってしまうということである。その麺に引き寄せられるように、語り手の想像力は増殖する。

 たとえば「父の身体」という作品。出だしは「あなたの手を握りつつ、あなたが強姦魔だったことを思うと・・・」とはじまる。「あなたの頭が縮まるだけでは十分ではない」のだと語り手はいう。だから自分の彫刻家としての技術を使い、身体全体を「縮めてあげる」という。ここからはさながら黒魔術の世界で、火山の熱だの、火の川からの水だの、河床からの砂だの、と材料を揃えたあげく、首から胴、脚にかけて父の身体の皮を剥ぎ、肉を投げ捨てて動物たちに与える、といった話になる。が、その言葉が実に繊細で、やさしく、流麗なのである。

I'd use volcanic heat,
water from Fire River,
hot sand from its bed
and I'd sing to my materials.
They'd sing back, glowing.
Even Jivaro headhunters
would be shocked at how easily
I'd slit the sides of each limb,
peel the skin from your neck
and torso down to your feet.
How I'd discard your meat
and ask all my animals
if they were hungry.

 英詩を読み慣れた人なら、父を呪う作品というとDaddy, daddy, you bastard, I'm throughと終わるシルヴィア・プラスの「ダディ」を思い出すかもしれない。プラスは現代詩人の中でも喧噪派の最右翼で、とくに「ダディ」はその絶叫調が呪術的な域にまで達したものである。喧噪派の詩人というのは、ダンにしてもプラスにしてもエゴがたいへんに強く(なぜでしょうね?)、そのあたりに辟易する人も多いのだが、プティーの詩はここがよくわからない。プラスはときに雑で、破れかぶれなところもあったが、プティーは言葉を徹底的に磨き、つるつるにしたうえで、口元には笑みさえ浮かべている感じがする。いたずらにしては結構本気っぽくも見えるし、ときどきやけにお父さんにやさしくなるのが、また不気味でもある。いずれにしても、ジャングルの動物たちが父の病室に現れてくつろぐというイメージは、たいへん強烈であった。

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2007年10月11日

『村上春樹にご用心』内田樹(アルテスパブリッシング)

村上春樹にご用心 →bookwebで購入

「村上春樹が苦手な理由がわかりました」

 村上春樹は「好き、嫌い」で語られることが多い作家だ。筆者も、昔からどうも苦手だった。でも、なぜか、相当数の作品を読んではいる。それで「あなたも村上春樹が好きになれる」という本があると、つい手を伸ばしてしまう。

 本書は、今をときめく内田樹先生によるハルキ本である。そのテーマのひとつが「村上春樹はなぜ批評家に憎まれるのか?」だというので、「そうこなくっちゃ」と思いながら本屋でめくりだしたら、とまらなくなってしまった。ブログをはじめあちこちに書いた村上批評をひとつにまとめたものだが、短文が多いこともあり論集という風情はまったくない。歯切れの良い「徒歩感覚の現在進行形」とでも呼ぶべき語り口で、サービス精神とおふざけが満載なのに、たいへんちゃんとしたことも言っている。途中、本気で怒ったりもするところがまた、いい。

 本書は大きく分けると「嫌われ春樹」を扱った部分と、「愛され春樹」を論じた部分とから成る。前者の中で圧倒的におもしろい、というか、本書の中でも突出して迫力があったのは、安原顯の村上に対する憎悪を扱った「村上春樹恐怖症」という文章である。

 中央公論社の名物編集者として知られた安原顯が村上春樹のナマ原稿を古書店に売っていた、という事件は大きくマスコミでも報じられた。村上春樹自身がこの件を発端に、すでに故人となっていた安原について、かなり痛烈な批判を含んだ文章を発表したことも知られている。村上本人によれば、安原はある日突然、彼のことを憎悪しはじめたのだという。実は安原顯は自身が作家志望だった。が、その作品を読んだ村上の印象は次のようなものである。

正直言って、とくに面白い小説ではなかった。毒にも薬にもならない、というと言い過ぎかもしれないが、安原顯という人間性がまったくにじみ出していない小説だった。どうしてこれほど興味深い人物が、どうしてこれほど興味をかき立てられない小説を書かなくてはならないのだろうと、首をひねったことを記憶している。

 いやあ、なんと残酷なコメントでしょう。たしかに村上の小説の中にも、こういう毒がちらっと噴出することがあるよな、と思い出したりするが、たぶん本人も気づいていないかもしれないのは、その毒の破壊力が、ある種の「ふつうさ」に寄っているということだ。村上のこういう悪意には、インテリ的な匂いがまったくしない。

 この「ふつうさ」がくせ者なのだ。
 職業柄、膨大な数の小説作品に接する編集者が、「これくらいのものなら俺でも書ける」と思うことはあるだろう。村上春樹の作風の「ふつうさ」はまさにそうした気分をかき立てるものだ。だからこそ、その読者は(内田のうまい表現を流用すると)「電通=マガジンハウス的メディアコントロールに煽られているナイーブで頭の悪い読者」と見えるのであり、村上作品の人気を支えているのが、彼らの「『まるで自分のことを書かれているようだ』という種類の共感」だとすると、「文学のプロ」を自任する編集者の側に見下すような気持ちが芽生えるのも無理はない。

 にもかかわらず、「これくらいのもの」を書くのは意外と難しい。安原顯はついにひとに読んでもらえるような作品は書けなかった。彼の中で村上的なものは特別な意味を持つようになり、やがてそれは生理現象といっていいほどの憎悪をかき立てることになった。内田は次のように説明する。

原稿を「モノ」として売るということは、作品をただの「希少財」(珍しい切手やコインと同じような)とみなしたということである。死にかけた人間がいくばくかの金を求めてそんなことをするはずがない。これはおそらく作品の「文学性」を毀損することだけを目的になされた行為と見るべきだろう。

 どうだろう。少なくとも、これが「なぜ村上春樹は批評家に憎まれるのか?」という疑問に対するひとつの答えである。しかし、これはあくまで安原顯という個人のこと。ほんとうのところ、内田にも村上をめぐる生理的な憎悪の真相はよくわからないのだという。だからこそ、考えたくなる。だからこそ書く。

 本書は全編を通し、村上春樹の愛読者である著者が、「村上憎悪」というすぐれて日本文壇的な生理反応に一生懸命答えようとした軌跡なのだ。たいへんまじめな本である(あまりに卓抜なタイトルなので、「ふざけやがって」と思う人も多いかもしれないのが残念なくらい)。もちろん「なぜ憎まれるのか」という疑問に正確な答えを出すのは難しい。ときとしてそうした作業は不毛さを感じさせる。それに何と言っても内田自身から迸るのは「愛」の方なのである。だから自然と、多くの文章は「なぜ春樹はこうも愛されるのか?しかも世界中で!」という風に最初の問いをひっくり返してしまう。

 正直言うと「なぜ村上春樹が世界中で愛されるのか」という問いは、そのほがらかさゆえにまるで村上キャンディーのキャッチコピーみたいで(実際、この本の帯にも使われている)、「内田先生、それはどうかな?」と横やりを入れたくもなる。つまり、こうした問いはすでに「→それは村上キャンディーが、みなに愛されるくらいおいしいからよ!」という予定調和的な答えを内包しているのではないだろうか。ベストセラーであることがベストセラーの根拠になるような、どことなくネズミ講的な匂いがしないでもない。

 とはいえ、問題設定の危うさにもかかわらず、「愛され春樹」をめぐる内田の実際の分析は、細かいものになればなるほどすばらしく、とくに「太宰治と村上春樹」という文章には「日本版スタンリー・フィッシュ」とでも呼びたくなるような見事な目の付け所とあざやかな仕掛けがあって、思わず「おお」と声をあげてしまった。この本の核となる文章であり、是非読んで欲しいので簡単に紹介しておこう。(その他の必読は「『父』の不在」、「読者のとりつく島」、「うなぎくん、小説を救う」など)

 村上と太宰には共通する技術がある。それは読者に対する「めくばせ」だと内田は言う。小説家が「な、だよな、」と読者に働きかけることはままある。語るべきストーリーとか、描写から離れて、小説家が読み手と面と向かうような一瞬。村上にもそれはある。ただ、村上の特徴は、そうした「めくばせ」を通して読者を自分の嘘に巻き込む技術がある、ということだ。内田は『羊をめぐる冒険』の中にある「あの六十年代」という表現をとりあげ、その「あの六十年代」が実際には存在しえなかったことを実証したうえで、村上があえてこうした表現を用いることで、「な、俺たち、そんなもの知りゃしないんだよ、だから知ったふりをするのさ」という働きかけを読者に対して行っているのだと解説する。

ほら、67年ころ、俺たち、ドアーズとか聴いてたじゃないか?」という同意を求める回顧的な問いかけに私たちがためらわず頷くことができるのは、「こいつも俺と同じように67年的リアルタイムではドアーズなんか聴いてやしなかった(Light my fireだって、最初に聴いたのはホセ・フェリシアーノのカバーだったに決まってる)」ということを知っているからである。同じ音楽を聴いていたことに共感するのではない。「同じ音楽を聴いていた」という嘘を共有していることに共感するのだ。

お見事。すばらしい。たしかに村上春樹的ジェスチャーは、そういう誘いと拘束感とにあふれている。ともに嘘を共有するのだという洞察は、実に鋭い。

 しかし、ここまで来て筆者ははたと思った。そうなのだ。筆者がどうも村上春樹は苦手だなあ、と思うのも、まさにこうした「嘘の共有」のせいなのだ。な~んか、こういうのって、やだなぁ、と思ってしまう。だって、同意を求められて、わかりもしないのに首を縦に振るって実人生ではあまりにたくさんあることでしょ?我々がわざわざ小説を読むのって、ふだん正直になれなくて、カッコつけた(だからよけいカッコ悪い)嘘ばっかりついてるから、せめてフィクションの世界では正直にカッコ悪くなって、そうすることでカッコ良くなった気分になりたいためなんじゃなかろうか?

 どうでしょう、内田先生?

 この本を読んであらためて思うのは、どうやら内田樹という人が、意地でもからっと明晰でありたいらしいということだ。もっと言うと、じくじくした、薄暗い、純和風純文学に対するかなり強烈な嫌悪感が内田さんの中にもあるらしい。ちょうど村上春樹もそうであるように。だから、「嘘を共有していることに共感するのだ」などと、からっと言おうとする。でも、そういうあまりに痛いことって、からっと言えないことなのではないか。からっと言っちゃったら、違うことになっちゃうのじゃないか。村上ファンも、村上嫌いも、村上を取り巻く人間たちはみんなもっとじくじくしているのではないか。で、じゃあ、そうまでして内田さんがからっとしたいのはどうしてなのか。

 つまり、内田さんの「からっ」自体、ちょっと薄暗いものかもしれないなあ、という気がしないでもないのだ。でも、そういうものが文章に表されているのを読むと、なんか興奮したり、怖くなったり、或いはほっとしたりする。そんなのは批評家の仕事ではない、作家の仕事だ、と内田さんは言うかもしれない。それはたぶん正しいのだが、内田さんの文章にちらっと垣間見える強引さに、筆者は不思議な「まじめさ」を読んだということなのだ。

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