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2007年08月24日

『To the Lighthouse』Virginia Woolf(Penguin)

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「ご婦人対おやじ」

 日本でもファンの多いヴァージニア・ウルフ。神経を病み自死を遂げた悲劇の小説家というイメージが強いが、いたずらっぽくておしゃべり好きなところもあった。『灯台へ』は『ダロウェイ夫人』とならんでその代表作。今回、ゆえあって読み返したのだが、筆者はやっぱり『灯台へ』派だ。とても良い。

 ウルフの小説というのはだいたいそうなのだが、この作品、ぷんぷんと匂い立つような雰囲気にあふれている。薄らパステルカラーとでもいうのか、どこを向いても真っ白とか真っ黒というのはなく、何となく色に染まっている。何となく香り立っている。そういう世界はくどくて嫌だ、という人には向かないかもしれないが、でも、そういう世界をいっちょ体験してみっか、という気があるなら、是非手にとってもらいたい。ラララ~とかすかな鼻歌が聞こえてくるような世界だ。(翻訳も御輿哲也訳『灯台へ』(岩波書店)や、伊吹 知勢訳『燈台へ』(みすず書房)などいくつかあるので参考になる。ちなみに『ダロウェイ夫人』の方も、丹治愛氏による最新訳をはじめ数点ある)

 『灯台へ』は、元祖「何も起こらない小説」のひとつだ。灯台へ行くのか。行かないのか。天気はどうだろう。きっと雨だ。何しろスコットランドというところは、快晴の日が一年に2~3日しかない。風が強くて、年がら年中霧が出たり、雨がふったり、陰鬱な天気では世界のトップレベルだ。舞台になっているHebrides(「ヘェッ!ブルディーズ」という感じで発音する)は、ただでさえブリテン島の上の方にあるスコットランドの、さらに上の方にある島々の名称で、名前を聞いただけで「ああ、遠いなあ、寒いなあ、天気が悪そうだなあ」という印象を受ける。

 ラムジー家はここに別荘を持っている。主は哲学者。奥さんは専業主婦。子供が八人。さらに友人やら、風来坊やら、未婚の画家やら、弟子やらが出入りし、ちょっとしたサロンが形成されている。語りは、ラムジー夫人を中心にすえつつも、実際には「主人公」がいるのかいないのかわからないつるつるした身動きの良さで、「灯台へ行くのか行かないのか」と逡巡する登場人物たちの心象風景を描いていく。

 作品は1927年の出版である。ちょうどモダニズムの盛期で、この作品も斬新な実験小説として読まれることが多かった。そのせいもあり、フェミニズムや言語理論などによって、いろいろと理屈をつけられがちだが、硬く考えることはない。土台になっているのはご婦人たちの心の中で展開される、とりとめのない「おしゃべり」なのである。やるのかやらないのか、言うのか言わないのか、ああだこうだとやっているうちに限りなく境界があいまいになる。具体的だった話が急に形而上学に飛躍したり、うっとりと叙情的になったりする。愛すべきラムジー夫人や画家のリリーは、頭の中がつねに「おしゃべり」を遂行しているような人たちで、想像力と連想力と脱線力とがあふれんばかり、あれこれと言葉が言葉を、イメージがイメージを呼ぶ。論理的説明や段階的発展はストーリーの上でもほとんどなく、転換はだいたい唐突に起きるし、人物たちの思考も「思いつき」によることが多い。

 だから油断していると、何の話だかわからなくなる。Sheって誰だっけ?場所はキッチン?あれ、今、夜だっけ?などなど。だいたい小説というのは大船に乗ったような気持ちで読めるはずのものだ。一二行読み飛ばしてしまっても、まあ、大事なことが起きるときにはわかるようになっている。ちょうど野球中継のように。ついつい餃子とビールに注意が行っても、「ああっと、ランナーのタイロン・ウッズが挟まれました。ばかですねえ」とアナウンサーが知らせてくれれば、ちゃんと試合に戻ることができる。

 ところがこの小説ではそもそも実況中継というのがあてにならなくて、しゃべっているのがアナウンサーなのか、登場人物なのかわからないし、いつの間に人物が入れ替わったりもする。ただ、繰り返すが、こうした入れ替わりが難しげに行われているわけではなく、いかにもご婦人の「おしゃべり」にありがちな気安さと、気品と、甘さと、繊細さと、ちょっとした意地悪さに特徴づけられている。単語もやさしい。婦人たちは少し行き詰まると「あらら~」とばかりに感極まって、急に愛のことを語ったり、人生の意味を訝ったりし、そのあげくに投げ出すようにしてイメージを霧散させる。でも、評者が「いいなあ」と思うのはたいていそういう所だ。うわぁーっと伸びをして血がめぐるような、不思議な解放感がある。

 ところでこうしたご婦人の「おしゃべり」と明確なコントラストをなして、この小説のもう一方の極にあるのが、「おやじの思弁」である。「おやじ」とは一家の主で哲学者のラムジー氏。理屈っぽくて、現実的で、自己憐憫的。妙に高尚で、言葉には慎重。詩にはうっとりするよりも、いちいち感動する。偉そうなのだ。いつもつまらなそうにむすっとしているが、たぶん誰よりも長生きするに違いない。とりわけ「おやじ」なのは、空気が読めないところ。ジェームズの灯台行きの希望に冷や水を浴びせ、自分の靴がいかにすばらしい革で作られているかを得々とリリーに説明する。ラストの感動的なシーン、いよいよ灯台に船が到着、というところでは、急に「腹減ったな」とサンドイッチをむしゃむしゃ食べ始める。実に愛すべき「おやじ」なのだ。

 この作品には誰のものともしれない「おしゃべり」が蔓延し、究極の権威としてのこの「おやじ」に対して意地悪に振る舞いつづけるが、でも、最後にはすべてをゆるしているのかなという気もする。わかりあえないけど、まあ、いいかというぐらいの緩さがある。舞台は「ヘェッ!ブリディーズ」だが、実際のモデルはウルフがいつも夏を過ごしたぽかぽか暖かいコーンウォルのセントアイヴズだと聞くと、そうか、とも思う。どきっとするほど悲しいことや、辛いことや恐ろしいことも書かれているのだが、全体を寛大さとぽわぽわした雰囲気とが包んでいるところが洒落ている小説だ。


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2007年08月13日

『大きな熊が来る前に、おやすみ。』島本理生(新潮社)

大きな熊が来る前に、おやすみ。 →bookwebで購入

「ライン跨ぎ」

 「他の人はこの作品についてどう言うかな?」というのが表題作を読んでの最初の感想だった。無防備というか、身も蓋もない表現が平気で出てきて、今にも「ヘイヘイ」というヤジが聞こえてきそうなのだ。冒頭など次のような具合だ。
 徹平と暮らし始めて、もうすぐ半年になる。付き合ってすぐの頃に今の部屋へ二人で引っ越したから交際期間もほとんど同じぐらいだ。それでも時々は冗談で、結婚の話なんかも出る。

何なのだろう、この小説っぽくない「ふつう」さは。若い女性による作品だというのに、ぜんぜん洒落てない。だいたい暮らし始めて「半年」というセッティングには、いかにも「はじめて深刻な喧嘩をしちゃいました」的平凡さが漂っている。「付き合ってすぐの頃に今の部屋へ二人で引っ越したから」とか「交際期間も同じ」とか「それでも時々は冗談で、結婚の話なんかも出る」などと聞くと、雑誌などの結婚相談コーナーのがやがやした雰囲気が思い浮かぶ。

 ためしにこの出だしを、次のように書き換えたらどうだろう。

 徹平と別れて、もうすぐ半年になる。いつの間に部屋に住み着いた彼といったいどれくらいの間付き合ったのか、交際期間などというものを語るのが不可能な出口の見えない時間を私たちは共有したのだった。もちろん、結婚の話を冗談まじりにでも話に出す機会などなかった。

少しだけ「小説っぽく」なっただろうか。単に否定的に、曖昧にしただけのことなのだが、ある意味ではこの作品、こんな感じで始まっていても決して不思議ではない内容なのだ。

 でも、やっぱり、出だしはあのままがいい。きわどいラインなのだが全体を通してみると、作者の反小説的前向きさと明瞭さとが、評者にはとても魅力的に思えた。小説を書くなんて、嘘つきのはじまり。そういう土俵に乗って、「この人、嘘がつけないのだ」と思わせるのは意外とたいへんなことだ。ストーリーで嘘をついても、言葉のレベルでは嘘をつかない、そういう際どいラインがありそうだ。

 クライマックス近くには次のような一節もある。

「俺、二度と殴ったりしないから。本当に、もうしないから。約束する」
 こういう台詞を信じようとする私を、たぶん、ほとんどの人は馬鹿だと思うだろう。騙されてるんだ、そんな男はこれからもずっと同じことを繰り返すと忠告されるだろう。
 だけど先のことは分からなくて、今は言葉で、約束するしかなかった。少しでも相手に変わる意志があって、それに付き合う体力と気持ちが私にあるかぎり、付き合い続けたかった。

男の台詞はともかく、それに続く地の文。呼びかけというのか、宣言というのか、所信表明というのか(とくに「今は言葉で」のあとの「、」が大事だ)。語り手がぬっと飛び出してきて、お面をとるとそれが著者で、おじぎをして挨拶までされたような気分になる。ほとんどルール違反に近い。まるで18世紀のイギリス小説のようだ。

 でも、ここの部分もやはり、こうでなくっちゃ、と思う。この語り手は嘘がつけないのだ。ぜんぶ言わないと気が済まないのだ。やれることしか、やらないのだ。

 ストーリーそのものは、まるで心療内科のモデルケースのようだ。保育士の主人公は半年ほど前からある男と同棲している。ふたりとも目立ったところがあるわけではない。派手に振る舞うのは苦手。むしろお互いが相手の不器用さに惹かれて付き合いだしたようなところがある。しかし、ふたりには心の傷というか、どうにもならない不安定な部分がある。主人公はかつて父に虐待を受けた。「悪い子にしていると熊に喰われるぞ」というのが父の口癖だった。幼い主人公は、「じゃあ、なぜ、父は熊に喰われないのか?」などと考えた。そうしてわざと熊をおびき寄せるために、遅くまで起きていたりする。父が熊に喰われるように。自分が喰われてもいいから。

 にもかかわらず、主人公は父と似たところのある男と付き合いだす。そして過去が繰り返されていく。「彼と一緒に暮らすのは、どこか、ゆっくりと時間をかけてお互いを掘り起こしていくような作業だ」と主人公は言うが、それは実際の出来事にもつながっていく。男の暴力。幸福ではない妊娠。やがて男の抱えた何かが少しずつ主人公にも見えてくる。

 精神分析じみた心理解説にはげんなりするもののだが、不思議とこの作品ではそうはならなかった。小説的な迂回や屈曲を飛び越えた一刀両断みたいな書きっぷりも、勢いゆえの冴えを持っている。

帰りの電車を待つホームでそう言った彼の、今よりもずっと渇いた目の感じは、未だに印象に残っている。きっとこの人は子供や動物が苦手だろうな、と思った。そういう無邪気な強い生命力を発散するものの対極にいる人だという気がした。

なかなか冷酷な台詞なのだが(父が熊に喰われてしまって欲しい、などという言葉よりもずっと)、この語り手=主人公はまるで幼い子供のように、ふいにそうした視線で相手をやっつけにかかる。

  よく「手紙を書くようにして書いてみなさい」などというが、たぶん、そういうところのある作品なのだ。語り手の(自分の)言葉に対する信頼の強さについ、こちらも感染してしまう。「あとがき」には、大幅な推敲をへた作品だとあるが、この著者は同じ物語を何度も書き直していく人なのかなとも思った。佐伯一麦のようになればいいのに。

 二つ目の「クロコダイルの午睡」はプロット勝負。三つ目の「猫と君のとなり」は、こんなストーリーなのに楽しめてしまうあたり、著者の力だな、と思った。


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