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2007年05月31日

『森有正先生のこと』栃折久美子(筑摩書房)

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「悪役は誰だ?」

小説家の勝負所は、いかに悪役を描くかにある。考えてみて欲しい。小説の登場人物に「ほんと、いい人だなあ」などと感動することなどあるだろうか。「こいつ、ほんと嫌な奴だなあ」と感心することの方がはるかに多いのではなかろうか。・・・と言った途端、「え、そうですか?たとえば?」と突っこまれたら、一瞬躊躇してから筆者は――小説などよりも――真っ先にこの『森有正先生のこと』をあげるだろう。



 著者の栃折久美子さんは有名な装丁家。元々は筑摩書房で編集者をしていた人である。ちょうど編集者を辞めるという時期に、栃折さんは哲学者の森有正と運命的な出逢いをする。それから森有正が亡くなるまでの約十年、ふたりは何とも奇妙なつき合い方をした。


 森有正は実にわがままな人だ。気分屋で、神経質で、予定の急な変更も得意。終始マイペースで、そのたびに周りの人間に迷惑をかける。でも、いつの間にその「迷惑」を浴びる中心に、栃折さんがいた。こういうのを恋愛などという陳腐な言葉で表していいのかわからないのだが、自分の中の熱いものを持てあますようになる栃折さんは、恋愛特有の毒素のようなものに満ちている。


 象徴的な場面がある。
 知り合って一年目の秋、栃折さんは二ヶ月以上に渡りヨーロッパ旅行をした。パリでは森有正とも会う。とりたてた出来事があるわけではない。食事をし、会話をする。森は自分の日記に、「日本から栃折さんという修道女が来た」などという書き方をする。そして帰国。栃折さんは森に、まず礼状を書く。が、それから、もう一通手紙を書いた。これが何の手紙だかよくわからないのである。でもこの箇所には、つまり栃折さんが自分の手紙の内容を振り返って語る一節には、栃折さんという人の性格がたいへんよく表れ出ている。


本を読んで「感動」するということは、その著者を直接に知らなくても、それは頭だけのことではなくて、身体全体のものだから、以前の手紙と本質的には変わらないと言うこともできる。けれども、この時書いた手紙には、それまで決して使ったことのない「ハンドバックと寝間着だけ持ってパリに行きの飛行機に乗ってしまいたい」などという、いささか物騒なことを書いたのは事実である。読者の立場をはみ出して、情理の失調状態を、はじめて著者に打ち明けた、と言わなくてはならないだろう。

 「事実である」「情理の失調状態」「と言わなくてはならないだろう」
 は?という感じがする。仮にも、いよいよこのふたりの関係がのっぴきならないものになろうか、という際どい場面である。熱いものに突き動かされ、栃折さんはジャンプしたのだ。どうやら手紙で何かを言ったらしいのだ。

 でも、栃折さんは頑な語り口を変えずに続ける。

 その一方で、木下さんの『ドラマとの対話』に書かれていたcreateするということを、前に木下さんに手紙を書いた時の五倍も強く感じている、という一節もあって、二重の構造になっている。書いても書かなくても同じ手紙なのだから、返事はいらないし、今年の夏は、去年、一昨年のように、何度も会って親切にしてくださらなくていい、とも書いた。

 正直言うと、はじめに読んだとき筆者は、この箇所、何のことかよくわからなくて、あらためて何行か戻って読み直したものである。「二重の構造になっている」と栃折さんが言うものは、栃折さんと森有正との、恋愛に限りなく近い関係の、そのもっとも痛切な部分について何かを語っているはずなのだ。

 翌年、約十ヶ月ぶりに栃折さんは森有正と再会する。ここがまたすごい。再会した栃折さんが手にしたのは、踵のすり減った森有正の大きな靴であった。駄目になってしまったから、新しいものを買ってきて欲しいとのこと。栃折さんはその片方の靴を家に持ち帰り、翌日、馴染みの靴屋から四足ほど見本を借りきて、ホテルの森有正を訪れる。「どうなさったんですか。そんなにたくさん」というのが森有正の第一声だった。そして、よりによってこのタイミングで、十ヶ月近く前の手紙のことを森有正は言うのである。手紙は燃やした。返事は書いたが、会って話した方がいいと思って結局投函しなかった。勝手にひとりでやっていきたい・・・そんなことだった。


 もちろん、これは終わりではなく、始まりであった。四足の靴を抱えて、小間使いのように扱われている栃折さんからは、すさまじい念力が出ているのだ。


 『森有正先生のこと』。何という慇懃なタイトルだろう。もちろん、「嫌な奴」なのはそうやって祭り上げられている森有正ではない。栃折さん自身だ。こういう人、身の回りにいません?じっと見ている人。相手ばかりにしゃべらせる人(栃折さんはふたりの会話を描くときも、森有正のセリフだけ抜粋するのだ)。下僕のように振る舞うけど、プライドは人並み外れて高い人。自分の感情にはロックをして、もの凄い力で抑圧している人。ぜったいに人前に裸などさらさない人。どもる人。舌足らずな人。何言ってるのかわからない人。でも、実は、よ~くわかっている人。しかも、恐ろしいような念力を発している。森有正も、どうやら、その餌食となったのだ。こういう魅力はタチが悪い。こんなに「嫌な奴」なのに、妙に可愛らしく、可憐に見えたりするのだから。



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2007年05月27日

『小説の読み書き』佐藤正午(岩波書店)

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「原稿用紙十枚の作家論」

 まさに名人芸である。
 佐藤正午は本業は小説家だが、エッセイの書き手としても一流である。本書はその文章術が随所に発揮されていて、一気に読み通してしまうのがもったいないほどだ。

 帯に「ユニークな文章読本」と銘打たれているように、本書は過去多くの小説家が手を染めてきた「文章読本」というジャンルへの、またひとつの挑戦のように見える。たしかに目次には川端康成からはじまって、志賀直哉、鴎外、漱石、三島、山本周五郎、太宰、横光・・・開高健、吉行淳之介と近代日本文学の錚々たる名前が24個ならんでいる。あまりに「錚々たる」すぎて、ちょっと退屈そうに見えるくらいだ。

 しかし、ぜんぜん退屈ではない。どの作家の章を読んでも、確実に「あっ」と興奮する瞬間が用意されている。たぶんポイントは分量である。作家ひとりにつき原稿用紙十枚かそこら。読む方にとっても、文章の書き出しを記憶したまま最後まで読める長さで、それだけにごまかしがきかない。そういう設定に自分を縛らせたうえで、佐藤はこの古色蒼然たる有名古典作家の文章を斬新な「問い」でつっつき、ほぐし、ぷんと香るように仕立て直してみせる。そこに極上の「答え」が用意されているのである。あ、またやられた、とこちらは思う。

 たとえば鴎外の『雁』。この小説にはサバの味噌煮が出てくる。30年前にはじめてこの小説を読んで以来、佐藤はそのことを一度も忘れたことはないという。しかしサバの味噌煮が出てくる場面は覚えていても、ストーリーの方は忘れてしまった。佐藤は年に一、二回サバの味噌煮を食べるらしいのだが(この人はいったいサバの味噌煮が好きなのか、嫌いなのか、微妙な回数である)、そのたびに『雁』のことは思い出しても、それがどういう小説だったかは思い出せない、これは不思議なことではないか、と佐藤は考える。なぜだろう?

 佐藤は『雁』を「痒いところに手が届くというか、むしろ痒くないところにまで手が届いてしまう」小説だと絶妙の形容をしたうえで、結論として、そこには「ほんの些細なことで人の運命など変わってしまう」という皮肉な主題があるとする。その「ほんの些細なこと」というのが、語り手の「僕」の、「サバの味噌煮嫌い」なのである。この「些細なこと」のために、岡田とお玉とは永遠に会えなくなってしまう。

 こうして佐藤は考える。どうやら彼にとってサバの味噌煮が意味してきたのは、「皮肉な主題から発想して小説を書くという方法」そのもののことだったのだ。だからストーリーを思い出せなかったのである。『雁』を思い出すということは佐藤にとって、「サバの味噌煮を別の何かに置き換えて登場人物の運命が変わるストーリーを一つ考えなさい」という練習問題にあらためて出会うということにほかならなかった。そして実際、彼はこの問題の答えとなるような小説を書いてもきた。

 十枚かそこらでひとりの作家を料理するには、俊敏さが必要だ。佐藤の文章はすばしっこく、逃げ足も速い。でも、まるででまかせみたいな口ぶりの中で、井伏鱒二の小説には「ふつうに、右手と右手で握手するような読者との関係の仕方を避ける、ふつうとは違ったつながり方を取る、作者の方法から来る不器用さの感触」があるとか、「無頼派の作家は例外なく結婚している」(太宰治の章)、「自分の書くものが達者であろうと悪達者であろうと、人は自分に慣れて飽きる」(織田作之助の章)、恋愛小説とは「登場人物たちの視力の弱い小説のことである」(開高健の章)といった、ちょっとやそっとでは言えないことがさらっと言われたりする。思いつきのようにも見えるが、小説について語るって、こういうことだよな、と筆者などは思う。小説は「雑」な部分を満載することで小説になるのだから、ちょっとは「雑」に、ぞんざいに扱わないといけない。

 この本、「さて」という言葉が出てきたときには要注意だ。いよいよ狙い球を絞ったバッターの、いま打つぞ、という迫力がみなぎる。全体に人なつこく、明晰で、爽快な印象だが、よく見ると実に締まった文章で、なんだかわからない執念というか、殺気だったものさえ感じる。死んでしまった作家ばかりを選んだのもそのためか。

 なお、六つほどつけられた「付記」がどれも傑作である。


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2007年05月23日

『ひとり日和』青山七恵(河出書房新社)

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「あたし小説」

 典型的な「あたし小説」である。
 「あたし」はかつての私小説の「わたくし」のように悲惨でもなく、偉そうでもなく、重くもないのだが、なぜかそのまわりからはふわふわと物語が発生してしまう。むろん、「あたし」であるからにはオンナが語り手なのだが、オンナというものは(たとえば筆者を含めて)男の中にも住んでいるから、誰にとっても人ごとではない。誰でも―あんちゃんでも、おっさんでも―「あたし」な気分になりたいときはある。「あたし小説」はこちらのそういう心理にヒットする。

 「あたし小説」の主人公はだいたいは少しだけ可哀想だったりする。お金がない、とか。男運が悪い、とか。好きな野球チームが弱い、とか。そういうわけで、「あたし小説」の見せ場はたいがい、男にひどい目に合わされる場面となる(でも、ものすごくひどいわけでもない)。『ひとり日和』の中で、思わず「おっ」と筆者が身を乗り出したのも、主人公のカレ氏である藤田君が「俺、しばらく来ないよ」と切り出すところだった。
 

わたしは聞かないふりをする。昆布茶の入ったマグカップをふうふうと吹いている。
「チー。聞いてる?」
「聞いてなあい」
「聞いてるね」
 藤田君は、鼻で笑った。その笑い方にわたしはひるんだ。知らない、恐い人のように見えた。
「もう、しばらく来ないつもり」
「……」
「ということで」
「なんで」
「まあ、いろいろ」
「なんなの」
「だから、いろいろ」

「聞いてなあい」なんてセリフ、芸が細かい。「知らない、恐い人のように見えた」というあたりには、昔ながらの小説作法をしっかり押さえた「目」がある。そして「ということで」とまとめようとする藤田君の、なんというか、図々しさがいい(もちろん、藤田君がいい人だ、という意味ではない)。

 「あたし小説」の読み所は、どうでもいいようなふらふらした自分の気持ちに、いちいち語り手がつまずいてしまう危うさだ。

 いつの間にか、執着心が生まれている。このねばねばした扱いづらい感情は、喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。

…なんて、ことをいちいち語り手はつぶやいてみせる。私小説だとこうはいかないだろうな、と思う。オトコというのは、人前では無口なくせに、文章となると大声になるのだ。

 この『ひとり日和』はたいへんいい小説で、青山七恵、もっと読みたいな、と思わせるのだが、電車の中で読めるようなこのふわふわした感じを維持するのは意外とたいへんだろうな、とも思う。それに長編となると話は別だ。ほかに「あたし小説」がうまそうな作家は何人か思い浮かぶが、その中でもちょっとひねりと毒のある大道珠貴とか絲山あき子といった書き手を、筆者はとりわけ応援している。

 なお、芥川賞の選評で「盗癖の描写がいい」というのがあったが、そこはこの小説の、あれこれと仕組んである感じがやや強く出過ぎて感じられたところで、筆者はどうかなあと思った。


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2007年05月15日

『詩と国家』菅野覚明(勁草書房)

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「倫理学と「ひとめぼれ」」

 ふだんはあまり足を踏み入れない近所の書店で、そうか、ここにも詩の棚があるのか、と眺めていたらたまたま書名が目についた、という本である。
 こんなどうでもいいことを書くのは、実は『詩と国家』のテーマがまさに「たまたま」と関係しているからだ。たまたまの出逢いというものに我々は弱い。書物はその典型例だろう。古本屋で思いもかけない掘り出し物に遭遇した、といった類のエッセーが多いことからわかるように、本を読む人というのは、たまたま手に取った見知らぬ書物に感動させられたいと思うものだ。ロマンスの香りめいたものがそこには漂う。

 それもそのはず、「たまたま」の根本には恋愛的なものがあるらしい。恋が恋となりうるのは、「私」と「あなた」が既にある役柄や関係性には還元できないような、根源的な出逢いをするときだという。こうした関係を菅野は「初対面」と呼んでいる。ただし、この「初対面」が成立するためには、必ずしも「わたし」と「あなた」が出会うのがはじめてである必要はない。菅野は次のように説明する。

「初めて逢う」とは、おそらく、既知のかたまりにおいて、その内なる何らかの未知性と出会うことであるだろう。既知のどのような役柄とも当てはまらないところで、相手の未知性と出会うことこそが、初対面という出会いの本質を成しているのではないだろうか。裏返していえば、「初めて逢う」出会いは、必ずしも両者が「初対面」であることを要しないのではないだろうか。

 実は私も著者の名前を知らないわけではない。というか、この人、私の同僚なのだ。少なくとも二週間に一度は同じ会議に出席している。でも、もう七年も同じ職場にいるのに、ご縁がなくてお話ししたことはない(会議の出席者は百人くらいいる。あと、菅野さん、頭を剃っているから、不良っぽく見えるし)。そんなとき、突然、書名が目にとまったのだ。「初対面」の典型とも言える出逢い――既知なのに、未知という出逢いだ。

 『詩と国家』への入り口としてもっともおすすめなのは、こうした出逢いの問題が恋愛譚とからめて論ぜられる「初対面とはどんな関係か」というセクションである(第三章の終わり)。ぱらぱらと頁をめくり、そこに「出逢い」の目を感じたなら、まさに読者にとっての「恋愛」の予兆だろう。

 「初対面」から出発して菅野は、「ひとめぼれ」の奥義へと話を進める。「赤い糸」などと形容されることの多い運命的な出会いとはいったいどのようなものなのか。それは一切の了解事項なしに「出会った瞬間相手のすべて(相手の「我」そのもの)を了解するような間柄」なのだという。相手の未知性と出会うことは恋愛においては必須なのだが、それでいてなお、相手をわかってしまう、という不思議な感覚が発生することがある。それが「ひとめぼれ」だという。

 会ったことのない、何ら接点を持たない者同士が、なぜわかりあえるのか?了解を可能にするような「約束事や文法」があるのではないか、と菅野は考える。ここで関係してくるのが「歌」、つまりタイトルにもなっている詩の概念である。何ら既知の了解を持たないはずのふたりがわかりあえるのは、わかりあいの深さを「屈折」(あや)のうちに表現しうるジャンルとしての詩歌なのである。

 日本的な詩歌の本質を言い当てる概念として使われてきた「あはれ」は、通常の「知る」行為とはやや別の形で対象に反応するような、いわばオルターナティヴな対象理解の作法を示す言葉である。また「あはれ」と密接にからむのは、自分にとって特別な意味を持つ何かを、「この」と指さしうるような、「このもの」の存在性に向けた敏感さでもある。このあたり、和辻哲郎を媒介にして現象学的なアプローチを日本的な情感としての「あはれ」に接合しようとする菅野の手さばきが冴える箇所である。

 話はこうして歌から、「挨拶」の問題へと進む。そもそもどうして人は、話を切り出すのに苦労するのか。文章の書き始めで四苦八苦するのか。どうもそこには、言葉と人をめぐる根源的な困難が潜んでいるらしい。挨拶すること、切り出すこと、はじめること、はじめて逢うこと、言葉がそうでないものから言葉になること ―― 一連の問題がつながってくる。

 著者の菅野覚明は倫理学者。タイトルは見てのとおり、堅い。しかし本書には「へえ、倫理学って、そういうことを考えるものなんですねぇ」と思わず話し言葉で言いたくなるような、切り口の自在さがある。で、「国家」の問題はどうなるんですか?という疑問がわいてくるかもしれないが、これは是非、本書を手にとって確認していただきたい。


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